福音の自由

 先日、ある人とばったり出会いました。その方を以前から知っていたのですが、ご自分がいっていた教会から離れた、ということで少しその事情をうかがい、複雑な思い。

神を信じるということは、神ではない者からの束縛から解放され、自由を得ること。

しかし、ある人や組織が神になり代わるようにして、権威をもって他者を誘導するというようなことがあるなら、そこに福音の自由はありません。

自分の立場を善、その他は悪、という善悪二元論は福音ではないでしょう。

「神」に関して語るものは、このことを心しなければ・・・そうつくづく思わされた今日この頃。


「この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。」ガラテヤ5章1節


「教会がカルトかするとき」ウイリアムウッド から

カルト教団は例外なく、「世界の救い」、「地上天国」、「世の中の革命」等の大きな目標を掲げます。

そこで、信者はその働きに参加することにより、充実感、達成感、生きがいを感じるのですが、彼らの「働き」は必ず組織の利益や拡大に直接結び付くものです。

ですから実際のところ、彼らは組織に利用されることになりますが、彼らにそのような認識はひとかけらもありません。「神のしもべ」、「神の組織」のための奉仕だと考え、過酷な条件のもとでどんなに働かされても、犠牲を惜しまずに、喜んで仕事をするわけです。

自尊心の低い人間は、自分よりも大きなものにすがりつくことによって、自らの存在価値を見つけたり、自信を得たりします。自分の足で立って、ひとりで生きる自信はありませんが、大きな組織の一員として認められるなら、そこで安心感を覚え、積極的に生きていく人間に生まれ変わるのです。



・・・現代人のニーズを知りつくしているカルト教団は、強力な伝道の武器として、「ラブシャワー」というマインドコントロールのテクニックを使います。組織に対して関心を示す人に愛情を注ぐのです。何時間もかけて、涙を流しながら、話を聞いてくれます。食事を作ったり、家の掃除を手伝ったりしてくれます。・・・

 言うまでもなく、このような「ラブシャワー」を受ける者は、大きな感動を覚えます。と同時に、「これほどの愛を実践している宗教団体はほかにない」と確信するのですが、その人に分からないのは、この「ラブシャワー」には条件が付いているということです。その条件とは、組織に対する絶対的服従です。つまり、組織の教えをすべて受け入れ、素直に従っていけば、大事にされますが、組織に対して疑問をもったり、その教えに反したりすると、その「ラブシャワー」はピタッと止まってしまうのです。そこで、「不従順な人」は悩むことになり、重大な決断を迫られることになります。

自分の良心を守って真理や真実を徹底的に追及するか、自分の思いを押し殺して組織に従うかです。
残念ながら、愛された経験の乏しい現代人は、仲間として認められ、「ラブシャワー」を受け続けるために、組織につき従う道を選ぶことが多いのです。


 専門家の間で、マインドコントロールの最大の問題点とされているのは、人間の成長が止まってしまうことです。誰かに依存している間は、人間は自分で考えることをやめ、その結果、精神的・霊的・知的成長がストップしてしまいます。本人は素晴らしい人生を発見したと喜んでいますが、その「素晴らしい人生」を歩み続けるために、大きな代価を支払うことになります。つまり、自分の心を失ってしまうのです。

 「教会がカルトかするとき」ウイリアム・ウッド  P.18