先生と呼ばれること

 牧師をしていると、人から「先生」と呼ばれることが、よくあるのですね。

うちの教会に来てくださる方は、「牧師さん」とか、「藤井さん」と呼んでくださるのですけれども、他の教会の方からはよく「先生」と呼ばれることがあるのです。

かくいう私も、他の教会の牧師さんを、「先生」と呼ぶことがあるので、その気持ちはわかるのですが。

まあ、一つの教会の文化なのでしょうね。

でも、個人的には、「先生」と呼ばれる度に、違和感を感じてしまいます。わたしは「先生」ではなくて、「牧師」なんですね。

教える人、「先生」はイエスさまであって、自分はイエスさまの言葉をみなさんと分かち合って、一緒に祈り、歩んでいく伴走者にすぎないという牧師像、自己認識をしているので、「先生」といわれてしまうと、どうも違和感を感じてしまうのです。

「藤井さん」、「藤井牧師」、「牧師さん」がいいなぁ。

でも、つい「先生」ってつけてしまうんですよね。日本人の丁寧さなのでしょうか「牧師先生」とか・・・。ある人は「牧師先生様」と「様」までつけてくださったり。

 でも、なにかそうやって、「牧師」という働きを託された一人の人間を、その人も自分の罪と格闘しつづけている、罪赦された一人の人にすぎないにもかかわらず、なにか特別な人のように祭り上げてしまう心理が、教会のなかなか成熟できない理由の一つのように感じてもいるわけです。


 でも一方、私が牧師になりたてのころ、ある尊敬する先輩の牧師さんから、「先生とよばれるのを嫌がる人がいるが、先生と呼ばれるだけの責任があることを自覚して働きなさい」という助言をいただいたこともありました。全くその通りです。牧師として立てられた立場と責任を自覚することは大切なのです。


 その責任を「先生」と呼ばれないで「牧師さん」と呼ばれつつ全うしたい、と思う今日この頃。