チラシを配りながら考えたこと

 昼間は暑いので、朝早くチラシを配って歩くのですが、チラシを配りながら、いつもこのイエスさまの言葉を思います。


「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。
喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」(マタイ5章11節)

 イエスさまはあなたを罪から救う救い主です。真理であり道であり命ですと伝えると、嫌われたり、無視されたり、悪口を浴びせられるかもしれない、ということはいつも思います。


 でもわたしは思うのですね。イエスさまは本物なので、そういうことが起こるのだなぁと。

 もし、「いわしの頭」を救い主と信じている人がいても、わざわざその人を迫害することもないでしょう。ほっておくでしょう。

 しかし、イエスさまを真理であり、道であり、命であると信じる人を、ほおってはおけない、というわけです。それは逆説的に、イエスさまは「いわしの頭」ではなく、本物である、ということを現わしているのではないでしょうか。


 さてご近所や同じ自治会の家々にチラシを配るとき、いつも葛藤を感じます。時間をかけて、お知り合いになって、少しずつ信頼していただいて、関係をもたせていただく。この場所に引っ越して一年がたとうとしています。

 わたしたち自身も、誰も知り合いがいないなかで、ご近所に知り合いが出来ることは、とても嬉しいことです。

 しかし一方で、最善の配慮をしつつ、愛をもってイエスさまのことを伝えても、もしかすると、関係が壊れたり、無視をされるようになるかもしれません。

 でも、イエスさまを伝えたことの結果なら、なにも恥じ入ることはないのです。

 もちろん、信仰の押し売りのような行為は、厳に戒められるべきことです。それは相手の自由意志という人格を否定する傲慢な行為だからです。

 イエスさまご自身も、「聞く耳のあるものは聞きなさい」と、相手の人格、自由意志を尊重されたうえで、御言葉を語られました。伝道とは相手の意思をねじまげる、折伏ではありません。あくまで、「道」を「伝」えることです。イエスさまという「道」を伝えることであり、信じる、信じない、ということは、受け手の決めることなのです。

 チラシというのは、受け取った人が、ごみ箱に捨てようが、どうしようが自由。信仰の押し売りではなく、あくまで受け手が主権をもって、その情報を判断できるツール。


 後は、神さまが働いてくださることにゆだねればいいわけですね。



「わたし(使徒パウロ)の言葉もわたしの宣教も、知恵にあふれた言葉によらず、“霊”と力の証明によるものでした。
それは、あなたがたが人の知恵によってではなく、神の力によって信じるようになるためでした。」(1コリント2章4節〜5節)