癒し、医療、思想について

 クリスマスの恵みを、感謝いたします。

 さて、クリスマスとは関係ありませんが、最近、病気が治るとか、癒されるというのは、いったいどういうことなのかなぁ、とよく考えることがあります。


 イエスさまは、病の癒しをなさいました。それは人が健やかであることを主は願っておられるということだと思います。
 それは祈りを通しての、超自然的癒しもあるでしょうし、人間に神が備えてくださった免疫力、治癒力を通しても、主は癒しをなさるでしょう。
 ただ、主が癒されるからといって、もちろん医学が否定されるわけがありません。主は医学を発展させ、その医学的手段を通して、癒しをなさるとも思っています。


 その医学についてですが、最近、西洋医学に対しては、特に慢性的な病について、対処療法のみの治療に批判の声を聞くようになり、一方、東洋医学はその分野において見直されているような流れがあるように感じます。西洋、東洋、それぞれに短所長所があるでしょう。そもそも人体に対する考え方が違います。それは、人間観の違いではないかと思います。


 西洋医学は、内科とか耳鼻科とか皮膚科とか、いろいろ専門があります。方向性として、人体をトータルとしてではなく、部分としてとらえ、かつ事象を数値化して、客観的に対処していこうとするのに対し、東洋医学は体全体をトータルに捉え、数値化よりも、主観的な自覚症状を重視し、漢方独自の思想に従って処方します。東洋医学が哲学的であることに対し、西洋医学唯物論的、機械論的な前提、人間観がある気がします。


 唯物論的、機械論的というのは、たとえば臓器移植のように、各臓器を交換可能な部品としてとらえているということです。臓器移植については、クリスチャンのなかにもいろいろと意見があると思いますが、そもそも臓器を他者と交換可能な部品と考える、唯物論的人体観に対して、聖書的にはどうなのか疑問が残ります。聖書の創造論からいいえば、神は人間を部品の寄せ集めとしてではなく、なにひとつ不必要なものはないトータルな存在として、かつ取替え不可能なユニークな存在として、創造なさったと、私は理解しています。実際、他者の臓器を移植しようとすれば、自分の免疫システムが邪魔をします。人間の体は、そのように作られているわけです。


 また、癌の治療について、いわゆる三大治療といわれる、手術、抗がん剤放射能治療は、どれも、ある器官に発生した腫瘍を攻撃し、排除しようと試みるものですが、人間をトータルに見た場合、ある器官に発生した腫瘍の除去、縮小だけを目指すあり方に対する疑問が残ります。体の各器官は有機的に関係しあい、全体を構成しているというトータルな人体観に立てば、ある器官の問題は、その器官だけの部分的な問題ではなく、体全体の何らかの変調の結果と考えることができ、部分的な腫瘍の除去では本質的な治癒とはならず、食生活、生き方そのものの改善の必要性という発想も生まれてくるでしょう。これは、東洋医学的な発想かもしれません。



 そのように、医学もまたその背後に、「思想、哲学」があるのであり、その「思想、哲学」は果たして妥当なものなのか、吟味され、問われる必要があるのではないでしょうか。そのような問い直しがないまま、ただミクロな研究が進み、検査技術がいくら飛躍的に向上したとしても、そもそも人間というものをマクロに捉えることに失敗していたなら、治療行為の方向性が誤った方向に向いていく可能性もあるわけです。


 実際、今、医者にかかると、かなりの量の薬がでます。「こんなにいろいろ飲んで、大丈夫か?」という不安を感じるほどです。


 クリスチャンとして、聖書的な「癒し」ということを考えるときに、超自然的な癒しを求めることとともに、この医療行為における、前提となる思想、哲学に、聖書的人間観の確立を願い、その人間観に立った医療が発展していくことを、祈り求めていくことも、必要なのではないかと、思い始めた今日この頃なのです。