多忙は怠惰の隠れみの

「多忙は怠惰の隠れみのである」
糸井重里の高校時代の国語の先生の言葉より>

 第一に、多忙さは、大局的なもの、本質的なものを見なくて済むようにしてくれる。
 第二に、多忙さは、他人に対して鈍感にしてくれる。
 第三に、多忙さは、理屈抜きの充実感や、自己効力感を味あわせてくれる。

 うーん、なかなか深い洞察。


 自分が東京にいたころのことを、思い出しました。牧師として、数多い教会の集会、説教の準備、会議の出席、出版物の原稿書き、事務管理、そして、次々とやってくるイベントをこなしていかねばならない日々なかで、目の前の1人の人を大切に、愛することができなかった日々を思い、心を痛めます。


 当時の教会には、いろいろな人がやってきました。ホームレスの人が訪ねてくれば、適当に話を聞き、お弁当をあげて、帰ってもらいました。「今は、急がしいから仕方がない」と心の中でつぶやきながら。


 心の病の人もやってきます。あるときは、統合失調症の男性とかかわることになって、何度も入院先の隔離病棟を訪ね、やがて退院できるようになって、外の施設で自立への一歩を歩みだしたと思ったら、問題が起こって逆戻り。そのたびに、朝早く呼び出されたり。役所に付き合ったり。でも、最後は連絡がとだえ、どこにいるかわからなくなりました。最後までちゃんとかかわることができませんでした。


 また、あるときは、入国管理局に拘留されていたある国のクリスチャンから、助けてほしいと手紙が来て、「どうしようかな、知らない人だし」という思いもありながらも、結局、何度か訪ねました。でもそうやって、目の前に現れた一人ひとりに、時間が取られるたびに、頭の中では、ああ、今度の教会の集会の準備はどうしよう、あの仕事はどうしよう、と考えていた自分がいました。


 そのほか、沢山の教会員やその家族の病気、入院、召天。その訪問。もっと寄り添いたくても、充分な時間が取れないことも多々ありました。悲しんでいる方にかえって、「お忙しいのに来て頂いてすいません」と気を使わせてしまいました。
 

 忙しく立ち回る。それは自分は神様のために沢山働いているというような、錯覚した充実感をもってしまうし、さらに悪いことに、「これで本当にいいのだろうか」と立ち止まって考える時間もなくなります。


 目の前の1人を愛するためには、時間が必要です。そのためには、あれもこれもではなく、優先順位をしっかり見極めて、大切なもののためには、何かを捨てて、その1人のために、時間を作らなければ、本当の意味で、愛することはできないのだなと思います。


 その意味で、多忙というものは、ともすると目の前の人を愛さなくてもいい、怠惰の言い逃れと化すのだなと、実感してきました。


 イエスさまは、迷った1匹を探すために、迷っていなかった99匹をその場において探しにいった羊飼いのたとえ話をなさって、愛するとはこういうことなのだと、教えてくださったのに。


 酒田に導かれた今、もういちど、目の前の人を愛するということを、学びなおしている気がします。



「あなたがたはどう思うか。ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。
はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。
そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」(マタイによる福音書18章12節〜)