存在がみえないとね

 車にスピーカーをつけて、「イエス・キリストを信じなさい」と流して走っている車が、今朝、久しぶりに走っていました。彼らは、仙台から来ている丸森というグループ。彼らは一般の教会とは違う特異なグループ。彼らに言わせると、教会はちっとも伝道していないが、自分たちは熱心に伝道しているということなのだそうです。うーん。


 そんな、彼らの熱心さは理解しつつも、私としては、ただテープで言葉を聞かせているだけの、彼らのその「伝道」には、強い違和感があります。その違和感の大きな理由は、それを行う人間、その存在がまったく見えてこないということです。


 イエスさまは、ただ言葉だけを語って済ませる「伝道」などなさいませんでした。神の子でありながら、人となられ、人々を愛し、仕え、共に生きるなかで、責任をもって、言葉を語られたのです。


 たまに遠くからやってきて、車からテープをかけて回っていることが「伝道」なのなら、私たち家族は、わざわざ東京から酒田にやってこなくても、東京で生活したまま、たまに酒田にやってくればよかったのです。厳しい冬は避けて、気持ちのいい季節に、車にのってテープをかけて、その「伝道」とやらをすればいいわけです。


 そんなことで、いったい、神の愛が、本当に伝わるのでしょうか。


 自分が神様によって生かされている場所と時間と関わりのなかで、テープなどではなく、自分の存在から語る、それが「伝道」ではないでしょうか。イエスさまや弟子たちがなさったように。


 福音は、自らの存在をかけて語り、証していくべき価値ある宝なのですから。



「わたしは、彼らが神に対して熱心であることはあかしするが、その熱心は深い知識によるものではない。」(ローマの信徒への手紙10章2節)