祈りのなかで見出すもの

 一日雨と風。夜になって風はゴウゴウ音を立てています。
毎朝、歩きながら祈るのですが、今日は外を歩くのはなし。家で祈りました。


 祈りは神様とのコミュニケーション。すべてを知っておられ、なにも隠すことのできない神様の前に出る。それは本来、恐ろしいことのはずですが、しかし、わたしの罪や穢れを赦してくださった、イエスさまの十字架ゆえに、感謝をもって神様のまえに出て、祈ることができます。


 だれかに、このありのままの本当の自分を知られ、なお裁かれたり、責められず、ゆるされ、愛され、受け入れられる経験。日々、祈りの中で、その経験をすることができることは、本当に恵みであり、生きる力です。


 自分の価値を見出せなくなるとき、人と比べて、自分を責めずにいられなくなるとき、祈りの中で神の愛を思います。私に代わって死ぬためにキリストを遣わしてくださった神の愛を。


 キリストを身代わりに十字架につけられるほど、「あなたはわたしの目に高価で尊い」(イザヤ書43章4節)と、わたしたちの価値を認めてくださる主を見上げます。


 だれか人が認めてくれることに依存している自尊心は、同じく人によっていつも傷つけられる自尊心でしょう。それは偽りの自尊心です。


 しかし、決して変わることのない神の愛に支えられた自尊心を、人は傷つけることはできません。傷ついたとしても、祈りの中で、変わらない神の愛を思うことで、この自分の限りない価値を見出すことができるからです。ここに本当の自尊心があります。


 祈りの中で神様を見出すということは、本当の自分自身をも見出していく、ということなんです。