今日は妻の母が東京から酒田に。月末までいてくれるので、いろいろ助かります。
夜は酒田市内の幼稚園PTAの連合会。こういう会は始めてでしたが、それなりに楽しく過ごしました。
わたしが留守の間、Tさんのご家族が牛乳寒天を作って持ってきてくださいました。ありがとうございます。今、T家は寒天ブームのようです。(笑)
夕方チラシ配りの合間に、港のほうにいくと、釣り人を見かけました
悠然と最上川に釣り糸をたれている人
川の中まで入って、魚を追っている人
わたしは釣りはしないのです。(臆病者で、釣り針に、ミミズとかああいう生餌をつけられないので・・)
でも、見ていると、面白そうだなあと思います。
庄内藩士は武芸として釣りをしたそうです。
また、「魚をとる漁師」だったペテロは、イエスさまから「人間をとる漁師」にしようといわれて、ついて行ったわけでした。
釣り人をみていて、あらためて思いましたけれども、「釣り」というのは、本当に受身なんですね。実は、主導権は、魚が握っている。
網ですくうのならまだしも、釣り針に餌をつけて釣るというのは、もうただ魚が食らいついてくれるのをひたすら待つしかない。こちらの都合など関係なく、魚が主導権を握っている。人間は、ただ謙遜に魚が食らいつくのを「待つ」しかないのです。
この「待つ」ことが、釣りの本質。自分が主導権を握っているつもりで、すぐに結果を求める人には、釣りは無理でしょうね。
荘内藩士が武芸として釣りをたしなんだ理由がなんとなくわかる気がします。
しみじみと、「伝道もおんなじだなぁ」と思う今日この頃。