顔を合わせるから伝わるものがあるよね

 昨日の礼拝にお仕事のためにTさんのご主人がこられませんでしたし、OさんYちゃんもお休みだったので、特別に、礼拝のメッセージをのぞみ教会のホームページのほうにアップしておきますね。


 でも実は、「なんだぁ、礼拝に行かなくてもインターネットでメッセージが読めるんじゃん、じゃあ、家で礼拝しよ!」という人がいたら困るので、礼拝のメッセージは、最近インターネットにアップしないようにしていたのです。


 礼拝は、メッセージを聞くことがすべてではないからです。同じ空間で顔と顔を会わせて、心を低くし、神を賛美し、祈り、御言葉を聞き、礼典を行い、互いに交わりをもつこと、このすべてが礼拝だからです。


 どうも、最近のプロテスタント教会の、メッセージ偏重傾向は、よくないなぁと感じています。

 なぜなら、あるとき、「別に教会に行かなくても、テープやインターネットで礼拝説教を聞いていればいいじゃん」というクリスチャンの人に出会ったことがあって、「それはぜったい違うよなぁ」と違和感と危機感を感じたことがあったからです。


 顔と顔を合わせて、同じ空間を共有するからこそ分かち合える、礼拝の喜びがあることを、知ってほしいのです。


 そういう意味で、聖書の宗教は、個人の修養とか献身の宗教ではなく、神を中心にして、共に励ましあう、交わりの宗教なんです。


 このグローバルな時代にあって、本来ローカルであるべき「礼拝」のあるべき姿を大切にしないとなぁ、なんて、考えている日この頃。(思いっきりグローバルなツールのブログを書きながらね・・・)