世の光、地の塩へと

 今日は朝祷会(酒田市内の教会のお祈り会)。ミャンマー四川省での災害被災者の方々のことや、日本のさまざまな課題を覚えて、共に祈りました。


 この痛み病む社会の中にあって、教会につどうわたしたちも、それぞれの場所で、世の光、地の塩として、神様によって、用いていただけますようにと願わされます。


 最近、キリスト新聞を読んでいたら、こんな記事がありました。

 1976年、クロネコヤマト宅急便の初日、注文は11個だけであった。それでも小倉昌男は「主婦が必ず支持してくれる」と信じ、厳しい現実と向かい合った。それは小倉のロマンと情熱に裏打ちされた挑戦であった。


 許認可権を握り、従来のやり方を変えようとはしない「官」との摩擦も多く、時の橋本龍太郎運輸大臣を相手取った訴訟まで起こし、「お上」に弱いこの社会を仰天させた。言い知れぬ苦闘の末、今日年間30億個を超える宅急便サービスを定着させたのであった。


 引退後、小倉は数十億円に当たるヤマト運輸株式を寄贈して福祉財団を設立、自ら陣頭に立ち福祉経営に乗り出した。障がい者に健常者と共に働ける普通の職場を提供、自分の働きで月給10万円を可能にするベーカリー経営であった。今や福祉の指針となっている「ノーマライゼーション」の実践だ。


 二つの前人未到の仕事に挑戦した小倉は、若い頃結核で苦しい闘病生活を余儀なくされ、絶望から信仰に目覚めたキリスト者であった。05年、小倉の逝去に際し、日経新聞は次のようにその生きざまを紹介した。


「神に生かされている恵みをかみしめながら、人のためにと高い目標に挑み続けるロマンチストだった」と


 絶望に終わるのではなく、絶望からこそ始まる、神に生かされる人生、というものがあるのですね。

 そんな人を、神様は、世の光、地の塩として用いてくださる。それは本当に、感謝な人生だと思います。


「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。
そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」(マタイによる福音書5章13節〜)