霊ということについて学ぶ

 午前中はお祈り会。ユキティさん、ママさんと。今日はママさんも一言お祈りしてくださいました。感謝。

 毎回、新約聖書のマルコによる福音書を1章ずつよんで、分かち合い。今日の学んだのは、3章。難解なところでした。


 3章は初めて読むには、むつかしい箇所が続きます。特に、イエスさまが病を癒す活動をなさっているとき、ある人々が、「あれは悪霊の頭の力で悪霊を追い出しているのだ」といったところが、特に難解。



 さて、聖書には悪霊とかサタン、悪魔とか呼ばれるものが出てきます。目に見えないけれども、人を悪に誘惑する存在です。


 そんなものいるのかなぁ、と思うでしょうねぇ。


 さて、ひとたび現実の世の中を見ると、ひどい事件が日々起こり続けています。普通の生活をしていた人が、あるとき、ひどい犯罪を犯す。「え、あの人が」と周りの人々が驚く事件ばかり。


 たまたまそういう事件が続けて起こっているだけさ、と考えることもできるが、なんだかよくわからないけれども、人を悪に誘惑する力ってあるんじゃないか、と考えることもできる。かえってそちらのほうが、自然か?


 なので、聖書が、悪霊について語っているのは、ある意味、現実的ともいえる。しかし、それは、「悪霊は怖いぞー」と、人々を脅かすために聖書が語っているわけではなくて、悪霊の誘惑はあるけれども、イエス様は、そこから私たちを解放する力があるし、実際、解放してくださったのだ、という、福音のメッセージこそが、大切なわけです。


 さて、今日読んだ聖書のなかで、特に難解だったのは、イエス様の語った「まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。」という、たとえの意味。ここがよくわからないとユキティさん。



 リビングバイブルというわかりやすい聖書の訳では、こうなっていました。
「強い人の家に押し入って、その財産を盗み出すには、まずその強い人を縛り上げなければならないでしょう。悪霊を追い出すためには、まずサタンを縛りあげなければならないのです」



 つまり、「強い人」とはサタンとか悪霊のことで、人は、そういう悪に誘惑するものに縛られて、財産、つまり心を奪われているというわけです。



 もしも、「どうして自分は、こんな悪いことを考えてしまうんだろう」とか、「こんなこと、したくなかったのに、なぜだろう」というように、自分で自分の心をコントロールできないことがあったとしたら、何者かに心が支配されている、縛られているといえませんか?



 そういう悪いものに支配されて、財産、つまり私たちの心が奪われて、「どうして自分は、こんな悪いことを考えてしまうんだろう」とか、自分ではどうにもならない、コントロールできないということがあるならば、自分ではない、だれかが、この自分を縛っている「強い人」の家に押し入って縛り上げ,その支配下にあった財産、つまり、この自分の心を取り戻して、自由にしてくれないだろうか、ということになるわけです。


 そして、それがイエスさまのなさっている働き。悪魔の支配から解放してくださって、神の支配に招いてくださる。それは神の霊の働き、聖霊の業ともいう。


 その聖霊の業を、「悪霊」の業だ、なんていっていた当時の人々。それじゃあ、神様だって救いようがないんだよ、というのが、今日読んだ、ちょっと難解な、マルコ3章の真ん中へんの内容です。


「霊」に関する記述は、ある意味、ちょっと難しい。


 でも一方では、今、スピリチャルカウンセラーといわれる人が、盛んに「霊」に関して書いている本が、本屋に山積みになり、テレビで放送される時代。


 彼らは、「霊」について、当たり前のように語っています。そして、人々は喜んでそれを聴いている。いったいどういうわけか?


 現代の、理性至上主義や合理主義。目に見えるものがすべてという唯物主義の反動もあるのかもしれません。


 目に見えない心のことさえ、目に見える脳みその反応に還元されてしまう現代。しかし人間は、合理だけ、理性だけ、目に見えるものだけでは、満足できないのでしょう。


 人生の苦難や不条理も、それだけでは乗り越えることが困難。


 人は、やはり、目に見えないところにあるなにかを、求めてやまないもの。そもそも、大切なものは目に見えない。心も、愛も希望も勇気も、みんな目に見えない。目に見えないから、そんなもの存在しないとはいえない。「霊」ということも同様。


 そして、聖書はその目にみえない、大切なところを、2000年以上前から、ちゃんと語り続けてきている。ここ数年ふって湧いたように現れた、占い師やスピリチャル関係の人々が、思いつきで「霊」という言葉をもてあそんで、安易に「癒し」ているのとは、わけがちがう。


「霊」のように、目に見えないこと、実験によって検証したりできないことは、一方で、なんだって適当なことがいえてしまう。なので、カリスマ霊能力者のような人が、思いつきで「霊」について語るのが、一番やっかいで危ない。


 しかし反面、「霊」についてまったく否定するのも、極端。


「霊」に関しては、2000年の時を越えて、人々を活かしてきた、「聖書」から、学んでいくのが、一番安全、かつ大切な学びだと思います。


「わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。」新約聖書 エペソ書6章12節


「ところで、あなたがたはかつて、神を知らずに、もともと神でない神々に奴隷として仕えていました。しかし、今は神を知っている、いや、むしろ神から知られているのに、なぜ、あの無力で頼りにならない支配する諸霊の下に逆戻りし、もう一度改めて奴隷として仕えようとしているのですか。」(新約聖書 ガラテヤ書4章8節〜9節)