今日のお祈り会

 今日のお祈り会はユキティさんとママさんとともに。今日はアメリカのサドルバック教会のリックウォレン牧師が書いた「人生を導く5つの目的」を少し読んで分かちあい。内容はよいのだけれども翻訳ものなのですこしわかりづらいところもあったかもしれませんね。


人生を導く5つの目的―自分らしく生きるための40章

人生を導く5つの目的―自分らしく生きるための40章

 「人生はあなたが中心ではありません」
というこの言葉で始まるこの本は、聖書の思想を、人生論的な観点から5つの目的に簡潔かつストレートにまとめた、刺激的な内容です。


 「あなたは自分で自分を造ったわけではありませんから、自分が何のために造られたのか、分からないのは当然なのです」P.22

 「成功を収めることと、人生の目的を達成することは決して同じではありません」P.23


 「自己啓発は、実際のところ助けにはならない。自己犠牲こそが、本当の自分を発見する唯一の道であり、・・・」P.23


ふむふむ・・


 たしかに、本屋に山積みになっている「自己啓発本」の内容とは、結局、自分の能力をいかに大きくし、競争に勝ち、多くのものを自分のために獲得するかということです。そういう思想につかまって、心病んでしまう人もおられるでしょう。


 そのように、「自分のために何かを獲得する」ということが、はたして「人生の目的」なのか、というわけです。


 たとえば、インドの劣悪な環境で、愛と奉仕に生きたマザーテレサのように、「自分のために他者から奪う」生き方ではない、「自分を他者に与える」生き方こそが、「本当の自分を発見する道」ではないか、という問いかけです。


 ジェラール・シャンドリが言った「一生を終えてのち残るのは、われわれが集めたものではなく、われわれが与えたものである。」という言葉が思いだされます。

                
 神は、私たちのために、キリストを十字架のうえ犠牲になさることで、私たちの自己中心の罪をゆるして下さいました。この神の愛が、頭の中だけの理解ではなく、心で分かるとき、人は変わります。自分のために他者から奪う人生ではなく、自分を与え、分かち合う人生となります。



 「自分に固執していると、やがて行き詰ることになる。しかし、神を仰ぎ見ていれば、開放的で、広々とした、自由な人生が目の前に開けてくるのである」P.23


 この自分を造られた神を信じるという、しっかりした土台をもっていなければ、どうしても、自分自身に頼るしかなくなり、自分に固執することになります。しかしいったい「自分」なんて、どこまで頼りになるものなのでしょう。


 「自分が頑張らなくては」と「自分」に固執し、しかし頑張れず、成果の上がらない「自分」を責めては、数え切れない人々が鬱に苦しむ時代です。「自分」に固執することが、苦しみを生み出します。

 
「あきらめ」とか「開き直り」という手で、「自分」に固執することから解放されようとする方もおられるでしょう。でもなかなかうまくいきません。


 しかし、聖書は、「神を仰ぎ見る」ということを言います。


 「自分、自分」と自分に固執して、自分ばかり見つめて、あるときはうぬぼれたり、あるときは、自分を責めたりしている、「自分」という不安定な土台。


 しかしまなざしを天に向けて、そんな「自分」をさえ、なお愛しつづけ、許しつづけ、導いてくだっている神の愛というしっかりした土台の上にたつ。いや、神によってたたせて頂く、それが信仰。


 そんな神の愛を信じる信仰は、わたしたちをあらゆる束縛から解放し、広々とした、自由な人生を与えるのです。