妻の誕生日とか、昨日のこととか

shuichifujii2007-07-17

 今日は妻の誕生日。これで酒田に来てから、4人とも一度は誕生日を迎えました。山形のK先生、FAXのお祝いをありがとうございました。

 デジカメはまだ行方不明なのですが、Yさんからファミリーキャンプの集合写真をメールで送って頂いたので、載せておきます。Yさん、ありがとうございました。

 実は昨日の朝、酒田のMさんご夫妻が、鳥海山荘にいる私たちに顔を見せて下さるために、わざわざ山荘まで向かっておられたのに、キャンプが終わって山から下りるわたしたちと、途中ですれ違いになってしまったそうで、お会い出来ず残念でした。鳥海山荘は昔Mさんが支配人をしておられたこともあって、今回ずいぶん優遇してくださったようです。ありがとうございました。


 今日はもうネタがないので、昨日のファミリーキャンプの早天祈祷会のお話を載せておきます。

聖書
「朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。シモンとその仲間はイエスの後を追い、見つけると、「みんなが捜しています」と言った。イエスは言われた。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」そして、ガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出された。」(マルコ1章35節〜39節)


 英語にretreatという言葉があります。リトリート。いくつか意味があって、「退却」とか「後退」、「静養先」とか「黙想」「修養」ですけれども、教会でリトリートというと、修養の意味で使うようです。このファミリーキャンプも、ある意味リトリート。いつもの日常の生活や時間から一歩退いて、共に主と向き合う時です。

 ただ、しゃにむに前進するばかりではなく、時に、いつもの場から、一歩引いて、人々の声のしないところで、心静かに神と向かう。

 イエスさまも、しばしば人々のいるところから退却して、父なる神に向き合う時を大切にしております。

 先ほどお読みした個所は、イエスさまが、多くの群衆に囲まれる日常の生活から一歩退き、父なる神と向かいあった出来事が記されている箇所でありました。

「朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れたところへ出て行き、そこで祈っておられた」

 詩篇5編4節には、「主よ、朝ごとに、わたしの声を聞いてください。朝ごとに、わたしは御前に訴え出て、あなたを仰ぎ望みます」

という御言葉があります。

 一日の最初に、まず神様を仰ぎ、神の御言葉に耳を傾ける。これは大切なことと言われます。わたしの経験からしても、朝起きて、まず新聞を読んだり、自分の考えを思いめぐらせますと、それで心が一杯になりまして、御言葉がなかなか心に入らない、そんな気がいたします。

 さて、イエスさまは朝早く祈られたわけですけれども、注目したいのは、「まだ暗いうち」にと書いてあることです。

 もちろん昔は、電灯などありませんから、夜明け前、まだ真っ暗闇のなかに出て行って祈られたということであります。

 イエスさまは、12弟子を選ぶ大切な決断をなさるときも、夜を徹して祈られたとあります。それは、ただ長い時間祈っていたということより、夜の暗闇のなかで祈られたことに、大切な意味があるという方もいます。。なぜなら、暗闇というものは、目で見て、自分で判断するという、そういう生き方を無力にするからです。自分の考えや判断の通用しない暗闇に出て行って、そこでイエスさまは、神の御心を、神の光をこそ祈り求められたと、そのように受け止めたいと思います。

  さて、姿が見えなくなったイエスさまの跡を追い、弟子たちがやってきました。そして、イエスさまをみつけた弟子たちは、第一声こう言います。

「みんなが捜しています」。

 みんなが探している。多くの人がイエスさまを探している。弟子たちは、せっかくやってきた群衆のニードに答えたい。それなのに、イエスさま、いったいこんなところで、何をしているのかと、そんな非難めいた気持ちも、もっていたかも知れません。彼らには、なぜ、イエスさまが、ここで朝早くから祈っておられるのか、そのお気持ちを理解する余裕はありません。群衆のことで心が一杯です。「神の御心」よりも、「人の気持ち」で心が一杯になっていた、といっても良いのかも知れません。


 29日には、参議院選挙ということで、酒田の伝道所のすぐ近くで、候補者が街頭演説をよくしています。伝道所のある場所は、ああ見えても繁華街でありまして、街頭演説を聴きに、いったいどこからやってきたのだろうかというくらい、多くの人が集まるのです。そして、もちろん、どの候補者も、人々の気持ちを捉えようと、人々のニードに訴えるような演説をいたします。今なら、年金問題は欠かせないところです。いずれにしろ、いかに人々のニードに訴えて、自分に投票してもらうか、というわけであります。

 まさか、人々が大勢集まっていますのに、人里離れた鳥海山荘などで、祈っている候補者がいたら、落選確実です。

 福音書を読んでいきますと、イエスさま常に、群衆から、いわゆるローマを倒す政治家、革命家としてのメシアとして期待され、そうなるようにと促される誘惑をうけ続けています。弟子たちもみんなそれを期待して、イエスさまが政権を取ったら、誰が右の座に座るか、誰が大臣か、官房長官かと言い争っていたわけです。イエスさまは、「いや、わたしはやがて十字架について3日目に復活するのだ」と言われても、弟子のペテロは、「そんなことあってはなりませんと」いうわけです。だれも、十字架こそが、神の御心であることが分からないまま、人々の期待することをイエスさまに求めたわけです。イエスさまは、常にその誘惑と戦っておられるのであります。

 今日の聖書の箇所においても、そうではないでしょうか。ガリラヤでの働きが実り、カファルナウムの村中から人々が押し寄せてきた。人々はイエスさまを求めている。このまま、この村にとどまるべきではないかという誘惑があったのではないか。だからこそ、イエスさまは、人々の求める声のしない、まだ夜暗い時に、人里離れた場所にいかれ、父なる神の御心を一心に祈り求められたのでありましょう。


38節
「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出てきたのである」

 これが、祈りを通して与えられたイエスさまの確信でありました。このカファルナウムの町を離れ、ほかの町や村で宣教するということは、十字架に向かう歩みを、また一歩進めるということであります。しかし、イエスさまは、そのためにわたしは出てきたのであると、ご自分の使命を確信しておられるのであります。それは、人々の声ではなく、また、自分の心の声でさえなく、ただ父なる神との祈りのなかで、あらためてご自分の使命を確認、そして確信されたということではないでしょうか。

 先日、酒田にある4つの教会の合同の祈祷会を、伝道所において開催しました。11月に宮田四郎というホルン奏者をお呼びして、協力してコンサートを開催するものですから、一緒に祈って備えていこうということで合同祈祷会を初めて、もう3回目であります。

 そして毎回、一緒に祈りますと、いつも、このコンサートはいったい何のためにするのかという、目的と使命が祈りのなかで確認されていきます。つまり、これはただのコンサートではなくて、イエスさまのご愛をお伝えするため、証のため、人々が救われるための時となりますように、という祈りが篤く献げられていくのです。祈りのなかで、なぜ、わたしたちはこのことをするのかという、使命が、目的が、もう一度確認させられていきます。

 どんなに素晴らしい働きであっても、どんなに人に賞賛される働きであっても、それは、いったい何のためにしているのか、その目的を見失えば、むなしいものになってしまいます。

 同じように、何のために自分は生かされているのか、何のために、わたしたちは、それぞれの場所に遣わされていますのか、その使命を、今一度確認、そして確信する、そんな一歩退いて、神の声に耳を傾け祈る、リトリートの時を大切にしたいと思います。

 祈りのなかで、「わたしたちは、このためにそれぞれの場に遣わされていくのだ」という確信をいただいて、この山を下りてまいりましょう。