「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。
礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。
不義を喜ばず、真実を喜ぶ。
すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」1コリント13章4節〜7節
人間が求めてやまないもの。それは愛です。パウロは、愛がなければ、なにをしても一切は無益だとさえいいます。愛のない家庭、愛のない仕事、愛のない教会。どれもむなしいものです。
そしてパウロは、「愛は忍耐強い」と、教えます。
親は子どもに忍耐を学ばせます。食事の時には、最初からデザートでお腹を一杯にしないように、注意します。小さな子どもにバイキング形式の食事は体に毒です。おそらくすぐ、自分の好きなアイスクリームで、おなかを一杯にしてしまいます。そして、自分の好きなものだけを食べつづければ、いつか体をこわします。
もし、自分の愛というのもが、バイキングの食事のように、好きなものばかり食べるようなものならどうでしょう。
好きなことしかしない。好きな人とだけつきあう。それはとても楽な愛です。とても簡単で、快適です。しかし、そのような愛は、いつか魂が病んでしまうエゴイズムの愛です。
イエスキリストは言います。
「あなたがたが自分を愛する者を愛したからとて、なんの報いがあろうか。そのようなことは取税人でもするではないか。」
コリントの教会には仲間争いがありました。私はあの先生、私はこの先生と、まるでバイキングの食事のように、好きなものだけ集まって、群れては、互いの違いを裁きあったりしていました。
当時は教会といっても、ひとつの建物に集まる群のことではなく、その地域にいくつもあったであろうクリスチャンの小さな群を、まとめて○○の教会と呼んでいました。今で言うなら、地域にある様々な教会同士の関係に当てはめることもできるかもしれません。
自分の教会は熱心、それにくらべあの教会は生ぬるいとか、そういう言葉をたまに聞くことがあります。悲しいことです。また、賛美歌のジャンルが違うとか、祈り方が違うとか、礼拝の形式が違うとか、その違いを喜べずに、批判してしまったりすることもあります。そんな違いを、受け入れあう、忍耐強い愛が、コリントの人たちに必要だったように、現代の教会にも必要なのでしょう。
そのようにコリント教会は、様々な問題がありましたから、パウロは、ある時は厳しく叱り、ある時は励まし、まるで親が子を育てるように、関わりました。
それはパウロが、たとえ問題があろうとも、教会をなお忍び、信じ、期待し、耐えたからとも言えます。まさに、愛は「すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」とは、パウロにとって現実のことでした。今、どんなに情けない教会であろうとも、イエスさまによって救われた教会を、パウロは諦めないで、忍び、信じ、望み、耐え、関わり続けました。
小さな子どもは、毎日親になにか叱られます。そして、昨日怒られたのに、今日また、同じことを子どもはしてしまったりする。そしてまた叱られる。そういうことの繰り返し。いったいなんど言ったら分かるのかと、ああ、もうやーめた、好きにしなさいと、言いたくなることもあるでしょう。子どもを育てる愛。それは、忍耐強い愛です。諦めない愛です。なんどもなんども同じことを繰り返すことをやめない愛。たとえなにも変らないように見えても、しかし、それでもなお、全てを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える愛。
そのような忍耐強い愛のなかではぐくまれてこそ、子どもたちは成長します。
クリスチャンは、神の子とされたと聖書にあります。天の父なる神様が、失敗ばかり繰り返し、なかなか成長出来ない神の子であろうとも、人間の親が自分の子どもを忍耐する以上の、忍耐強い愛をもって、決してあきらめない愛をもって、導いてくださることを思うのです。
その神の愛の忍耐は、イエスキリストの十字架に現わされています。イエスさまは、人々から嘲られ、ののしられ、頬に唾をかけられ、鞭を受け、十字架の上で血を流しつつ、私たちのために、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍んでくださいました。ここにまことの愛。神の愛があります。
神の愛を信じる。それは、過去のことではなく、常に今、神がわたしたちを、なお忍耐し、なお信じ、なお期待していて下さることを信じることであります。神の愛のうちにとどまることであります。
そしてそこからこそ、他者に対する忍耐強い愛が私たちの内にも与えられていくのです。