「神の前に豊かに生きる人」

8月27日早朝礼拝
ルカ12章13節〜21節

12:13 群衆の一人が言った。「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。」
12:14 イエスはその人に言われた。「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。」
12:15 そして、一同に言われた。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」
12:16 それから、イエスはたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作だった。
12:17 金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、
12:18 やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、
12:19 こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』
12:20 しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。
12:21 自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」

 さて、早朝礼拝ではルカによる福音書を学んでいます。今日は 「愚かな金持ち」のたとえ と表題が付いている箇所から学びたいと思っています。

 今、聖書の箇所を読ませて頂きましたが、内容的にはそれほど難しいことはない。一度聞いたら良くわかるお話。特にたとえ話のところは、そうですね。

 これはイエスさまが群衆に教えたお話でありますけれども、ただ、この箇所でイエスさまが語ろうとしておられることを、深く理解するためには、やはり、少し文脈を押えておきたいと思っています。

 聖書を開いておられる方は、今日の箇所の少し前、12章の冒頭をみて頂けますか。そこには、「数えきれないほどの群衆が集まって来て、足を踏み合うほどになった。イエスは、まず弟子たちに話し始められた」と、書いてありますね。イエスさまの周りには大勢の群衆が集まっていた。その中でイエスさまは、まず、弟子たち。イエスさまに従っていこうと思っている人々に向かって、励ましのメッセージをなさるのです。

 少し先の、4節からは、そんな人々を友人と呼んで語りかけていますけれども、表題は、「恐るべきもの」となっていますね。何が恐るべきものなのか。それは、人間ではなくて神様。だから人間を恐れることはない。しかも、神様は、わたしたちの髪の毛の数さえ数えて知っていて下さるお方なのだから、なおのこと、人を恐れず神様を信じて歩みなさいという弟子たちへの励ましが語られます。

 さらに、8節からは、表題が「イエスの仲間であると言い表す」とありますけれども、イエスさまの仲間だというと、人々から迫害されるかもしれない。そういう状況の中で、しかし、なお、自分はイエスさまの仲間だと言い表そう。たとえ権力者の前に連れて行かれ、尋問されたとしても、聖霊が助けて下さるから、心配入らない。言うべきことは、神様の霊、聖霊が教えて下さる。安心しなさいという、そんな弟子たちへの励ましのメッセージを、ここまで、イエスさまは語ってこられたのです。

 ところが、その説教を聞いていた群衆の中のひとりが、突然、そのメッセージとは全く無関係なことを、イエスさまに語ったわけですね。自分の遺産相続の問題を解決してくれないかと、そういった。それが今日、勉強する箇所であります。

 おわかりでしょうか。つまり、この遺産相続の問題を持ち出した男性は、今までのイエスさまの教えを、そばにいて聞いていたはずですのに、まったく聞いていなかったかのように、全然関係ない話し、自分の遺産相続の問題を話し出したわけです。彼はきっと、そのことで頭がいっぱいだったのでしょうね。

 イエスさまの話しをちゃんと聞き続け、しかも、そのメッセージを受け止めるということは、これはそう簡単な話しではないようであります。

 これは聖書のお話を、最後まで集中して聞くことがなかなか難しいのと、同じだと思いますけれども、聖書のお話を、そのメッセージを最後まで集中して聞き続けるということは、なかなか難しいものですね。みなさまの中には、毎週毎週来て下さって、聖書のお話を聞いておられる方もいますけれども、どうでしょうか。毎回、最後まで集中して聞き続けるということは、これはなかなか難しいのではないかと思います。これはお話の上手下手ということも、もちろんあるわけですけれども、一方で、やはり、聞く方の、心の問題があるでしょうね。

 聞くというと、音楽を聴くということも、特に、クラッシック音楽のように、長時間のものを集中して聞くということは、なかなか難しい。どんなに素晴らしい演奏であっても、聞く側の心次第では、聞き流すこともできますね。つまり、BGMにしてしまうわけです。BGMというのは、自分がなにか考えていたり、仕事をしているときに、聞き流す音楽ですね。自分の考え事や仕事に集中するために聞く音楽だから、BGMというものは、真剣に聞いちゃいけないわけです。もし、BGMを真剣に聞いてしまったら、自分の考えに集中出来ない。自分の仕事ができなくなる。だから、聞き流すわけですね。

 そして、実は、それと似たようなことが、聖書のメッセージを聞くときにも起こるわけであります。メッセージを聞いているところで、いつの間にか、雑念が湧いてくるのですね。まるで連想ゲームのように、一つの言葉から連想が発展することもあります。そして、聖書の話しを聞きながらも、実は、心の中では、その話しとは全く関係ない、自分の考えや思いを思いめぐらしていたりするわけであります。

 つまり、話しを聞きながら、同時に、自分の心の中では、自分が語っているわけですね。
 人間というものは、話しを聞くよりも、自分が語りたい。そういうものであります。特に、心に重荷があるときとか、気になることがあるとき、その人の心の中では、いつも、自分が何かを語り続けていたりする。

 そして、今日、登場してきたこの、遺産相続の男性も、きっとそうだった。彼はイエスさまのお話を聞いていたのだけれども、しかし、心の中は、自分の遺産相続の問題でいっぱいだった。だから、イエスさまの話しが、BGMのようになってしまっていた。なので突然、

「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟にいってください」と言い出したのでありましょう。

 当時は、長男に大きな権限がありましたから、父親が死ぬと、ほとんどの財産は長男が手にした。ですから、この男性は、長男ではないですね。次男か三男でしょう。長男が親の遺産を独り占めしてしまったのか、とにかく、この男性は悩んでいるところに、評判のイエスさまがやってきた。そこで、このイエスさまなら、自分の問題をなんとかしてくれるのではないかとやってきて、だから、イエスさまの話は聞いてるのだけれども、心の中は、この遺産問題でいっぱいだった。

 ですから、そんな話しを聞こうとしない彼に向かって、イエスさまが14節で、「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。」と少々厳しくいわれたのも無理もないかと思います。

 そしてイエスさまは、底にいた一同に向って、こう言います。

12:15 「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」

 さて、貪欲に注意しなさいなどといわれて、きっと、この男性は心穏やかではなかったに違いない。「貪欲」? それはいったい誰のことだ?。それはわたしのことか?。なにをいっているんだ。「貪欲」なのは、私ではなくて、財産を独り占めにした兄貴のほうだ。わたしは、その犠牲者なのだ。なぜ、わたしが「貪欲」呼ばわりされなくてはならないのか。

 そのように彼が怒ったとしても当然な、そんなイエスさまの言葉であります。

 なぜ、この男性が貪欲なのでしょう。財産を独り占めした兄が貪欲だというならわかる。しかし、なぜ、自分にもすこし遺産を分けてほしいと願っているだけの、この男性も、また貪欲なのでしょうか。それはすこし、厳しいのではないか。


 いったい貪欲とはなんでしょう。あえて簡単に言い換えるなら、「もっとほしいと思うこと」ではないか。今、すでに持っていても、もっとほしいと思う。もっと良い物がほしいと願う。それを貪欲と言って良いかと思います。

 電化製品は日進月歩で技術が進歩して良いものが出回りますね。そうすると、今もっているパソコンを、洗濯機を、テレビを、カメラを、まだ十分仕えるのだけれども、でも、もっと性能のいい物を知ったとたんに、古いものは処分して、新しいものを手に入れたくなる。そういうことは誰にもあるでしょう。新しいものの存在さえ知らなければ、古いものを感謝して使っていたはずなのに、知ってしまった瞬間に、古いものが野暮ったくなって、新しいものがほしくなる。そうやってゴミは増え、環境の破壊も進むわけでしょう。

 この遺産相続でもめていた男性も、親が亡くなるまでは、別に遺産など期待しない生活をしていたでしょうに、親が亡くなって、遺産が手にはいるはずだと思ったとたんに、もっとほしくなって、それまで、遺産などなくても満足していたはずの質素な生活に、我慢ならなくなってしまった。自分も遺産を手に入れて、もっと良い生活が出来るはずだと、今の生活が、不満だらけになった。おそらくそれがこの男性の姿であったのでしょう。今の生活に満足も感謝もできないで、もっともっとと思う。それがまさに、「貪欲」というものだとしたら、これは、わたしも人ごとではない。彼を笑えないなと思います。私も、貪欲に捕まってしまって、今、与えられているものに感謝できない、不満を覚えるということが、あるからです。


 さて、そんな貪欲に捕まりやすい私たちに、イエスさまは、16節から、たとえ話を語り始めました。

 ある金持ちの畑が豊作だった。ところが、金持ちは作物をしまうところがないので、小さな倉は壊して、大きな倉を造って、そこに蓄えた、というお話であります。

 これは、大変賢いお話でしょう。この金持ちは賢い金持ちですね。今年豊作だからといって、来年豊作とは限らないし、飢饉(ききん)の恐ろしさも知っているでしょうから、豊作の時には、余ったものを無駄にしないで蓄えておくのは当然のこと。賢い生き方ですね。

 この金持ちは、あぶく銭が入ったら、すぐに放蕩に使ってしまうような人ではない。堅実な生活設計をして、将来の保証のために蓄えることを知っていた。これは賢い生き方だと思います。

 しかし、この金持ちに対して、神様は20節で「愚か者」と言われます。いったいこれのどこが愚かなのか。

20節
「 しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。」

 何が愚かなのでしょう? ここを読む限りにおいてはこういうことであります。つまり、人の命というものは、いつなくなるか分からない。だから、財産など蓄えておいても、命をうしなえば、人のものになるだけ。それが愚かだと、そういうことのように読むことができます。

 しかし、もし、財産などもっていても、命はいつかなくなるのだから、愚かだという、そういうことだとすると、わたしたちは、いっさい、財産を持つことは出来ないですね。もし、明日生きているかわからない。そんな考え方で毎日生きるなら、その日暮らしをするしかなくなります。明日のための蓄えなどは、ナンセンスになる。ましてや、将来の生活設計などしているものは、愚か者で、不信仰だということになる。そして反対に、信仰に生きるということは、明日に財産を残さない、その日暮らしの放蕩生活か、または、財産をまったく持たない、修道院生活しかなくなります。

 はたして、イエスさまは、そういうことを、ここで言っておられるのかといえば、そうではないでしょう。実は、この金持ちが愚かだと言われたのは、もっと違うところに問題があるのえあります。

 それは、この金持ちの19節の言葉なのであります。彼はこう言いました。

  12:19 こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』

 この、金持ちの独り言こそが、神様から愚か者といわれた原因であります。この金持ちのひとりごと、いや、これは独り言ではなくて、自分で自分に言い聞かせているわけですね。いわば、自分に向かって、説教しているわけです。

 おもわぬ蓄えが出来たぞ。豊作だ。これから先に、何年も生きていけるぞ。「喜び喜べ」と、自分に向かって語っている。自分に向かって説教している。そこに問題があるわけです。
 つまり、この金持ちが、財産を蓄えたことが問題なのではなく、蓄えさえあれば、大丈夫だという、そういう価値観を、そういう自分の教えを、自分に語っていた、説教していた。そこが愚かだった。

 イエスさまの教えを聞き、神様の価値観に耳を傾けて生きる。そこにある幸いな人生というものがあるわけですけれども、とかく、人は神様の教えを聞きたがらない。いや、聞いていたとしても、自分の心の中では、自分の考えを自分に向かって、語っていたりするわけです。聖書の教えはBGMのようになって、結局は、自分で自分に語っていたりする。

 イエスさまは、この12章の最初から、弟子たちに向けて、恐れることはない。大丈夫だ。私を信じて、私の仲間だといってついてきなさい。聖霊が助けて下さるから大丈夫だ。そんなメッセージを語ってきたのに、しかし、この遺産相続の問題で一杯の男性の心は、そんな、イエスさまのメッセージはBGMになってしまって、自分で自分に向かってメッセージを語っていたわけです。遺産がもっとほしい、もっと手には入ったら幸せなのに、と、自分の貪欲な価値観を、自分に向かって、語っていた。イエスさまのメッセージはBGMになってしまった。

 わたしたちも、聖書のメッセージを聞きつづけることは難しいことがあります。いつのまにか、雑念が湧いてくるわけです。そして、雑念とは、自分の思い、自分の考えです。神のみ言葉を聞いているだけでは物足りない、イエスさまの教えでは物足りない。もっとなにかないか、もっと自分の願望がかなってほしいと、貪欲な心に支配されますと、聖書の御言葉は、BGMのようになってしまいます。
 
 さて、今日の箇所の最後でイエスさまは、こう言われます。

 「12:21 自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」

 自分のために富を積む。つまり、貪欲であっては、神の前に豊かになることはむつかしい。なぜならば、貪欲では、神様の御言葉がとどかないからであります。神様の愛がとどかない。イエスキリストが命を捨ててまで、わたしたちを愛しておられる、その愛が分からないまま、いつも不満だらけの人生になってしまいます。

 しかし、神の前に豊かにされるならば、たとえ、経済的には貧しくても、神様の愛を喜び、感謝する豊かな人生を生きるのです。たとえ、自分の願ったとおり、自分の思い通りの人生ではなくても、十字架の神の愛を信じて、いつも感謝していきる豊かな人生を生きるのです。たとえ自分の命が、自分の思い通りにならなくても、なお神様の愛を信じて、いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことに感謝する豊かな人生を生きることができる。そして、それこそが、神の前に豊かに生きる人なのです。

 わたしは来週から山形県酒田市にある一軒家で伝道致します。実は、そこには今年の2月まで、78歳になる牧師先生御夫妻がおられました。その先生は、かつては、東京で、会社の社長までしておられたのに、イエスさまの御言葉を宣べ伝えたくて、それらを捨てて、東北の教会の牧師になり、二年前に、夫婦二人だけで酒田に行きました。その間に、財産はほとんど無くなってしまいました。そして、去年の暮れには大きな病気が見つかり、酒田の伝道も出来なくなってしまった。表面的にみれば、なんと可哀想な人生に見えるかもしれません。しかし、神様の目には、なんと尊くその人生が映っていることだろうかと、思います。その姿に接したわたしと妻は、感動しました。そして、とうとう、酒田にいくことになったのです。

 その先生は、今朝、お亡くなりになりました。イエスさまのもとに行かれました。この世界には、財産は残されなかったかもしれません。しかし、永遠に朽ちない宝を、先生は、神様の前に豊かに積まれたのであります。

 神の前に豊かに生きる人。それは、この自分を生かしているのは、財産などではなく、神の御言葉こそが、自分を生かしているのだと知った人。それこそが、本当の意味で、賢い人。神の前に豊かに生きる人だと、わたしは信じています。

 わたしは今日で、この早朝礼拝でお話するのは最後になりました。まことに至らないものでありましたけれども、共に、神の御言葉に耳を傾けることが許されましたことを、神様に感謝しております。これからも、場所は違っても、共に、神の愛を信じ、神の御言葉に生かされて、神の前に豊かになる歩みを歩んでまいりたい。

 自分のために富を積むむなしい人生ではなく、神の前に豊かに生きる人生を、共に歩ませて頂きたいと、祈り願っております。

お祈り致しましょう。