平安は神を知るところに

「・・・神のことを黙想することほど、人間の思いを謙遜にさせるものはありません・・・しかし、神を思うことは、心を謙遜にさせるだけでなく、心を広大にするものです。神について、しばしば考える人は、この狭い地球をとぼとぼと歩き回っている人より、広い心を持つようになるでしょう。・・・心を広くするためにもっとも良い方法は
キリスト、しかも十字架につけられたキリストについて学び、栄光に満ちた三位一体の神について知ることであります。神についての偉大な主題を、敬虔に、真剣に、継続的に探求していくことほど、知識を増し加え、人の心全体を広くさせるものは、ないでありましょう。
 神を思うことは、心を謙遜にし、広大にすることと同時に、特に、心を慰めるものでもあります。キリストのことを思うとき、あらゆる心の痛みはいやされ、神について黙想するとき、あらゆる悲しみは消え去り、聖霊の力により、あらゆる心の傷は痛みが和らげられるのです。・・・」

これは1855年のC・Hスポルジョンの説教の導入の言葉です。このとき彼は若干20才でした。

 スポルジョンの時代と比べたら、現代はインターネットの普及によって飛躍的に個人がアクセスできる情報量が増えました。しかしそれらの情報が、どれだけ私たちの心を謙遜にし、広げ、慰めてくれたのだろうかと思うことがあります。かえって、知ることによって高慢になったり、心が狭くなったり、平安を失ったりするのではないでしょうか? もちろん情報は大切であり、必要なものですが、情報は、新しければ新しいほど、古くなるのも早い。インターネットによって、いつも新しい情報に触れていなければ不安になる人も増えたのかもしれません。
 聖書を通し、神を知る。この栄光ある神に関する知識と、神に対する信頼こそが、心に平安を与える価値ある情報であろうと思います。


「何事も心配してはなりません。 むしろ、どんなことでも祈りなさい。 神様にお願いしなさい。 そして、祈りに答えてくださる神様に感謝するのを、忘れてはなりません。
そうすれば、人間の理解をはるかに超えた、すばらしい神様の平安を経験できます。 キリスト・イエスに頼る時、その平安は、あなたがたの心と思いとを静め、安らかにしてくれるのです。」(リビングバイブル ピリピ書4:7-8)