リベラリズムの自由と聖書の自由

 リベラリズムはすべての共同体的価値観や共通善を相対化し、互いに違った価値観に対して寛容に振る舞うことで、人間の自由を確保しようとします。簡単に言えば、他人に迷惑さえかけなければ、何を信じようが何をしようが自己決定できる自由、ということだと思います。ですからリベラリズムにおける不自由とは、あらゆる共同体的価値観や共通善の押しつけになるかと思います。そして、この立場の方々はその論理的帰結として買売春を肯定します。なぜなら、他人に迷惑かけない範囲内で何をしても自由ゆえに、互いに同意のうえで体を売り買いする行為を否定する理由を持つことができないからです。
 それに対して、聖書の教える自由は、絶対者、絶対善に立ち返るところにある自由、「神への自由」であって、「神からの自由」ではありません。神の示す価値や倫理から自由になろうとすれば不自由となっていき、神の示す価値や倫理に従おうとすれば自由になると考えるわけであります。買売春についていえば、十戒にある「姦淫してはならない」という倫理基準に、従って生きるところに真の自由があり、その倫理から離れ欲望に縛られるところには不自由があるとキリスト教は考えるわけです。

 聖書の十戒や律法の効用のなかに、神の価値基準を示し、それを守ることのできない人間の不自由さをあらわにする、というものがあります。それは、そんな不自由な人間を救いだすために、キリストが十字架にかかり、復活したことを受け入れるためです。そして、救われたキリスト者には聖霊が与えられ、引き続き神に従う自由を生きられるよう、聖書の言葉を用い聖霊が助け導いていく。それがキリスト教の自由実現プロセスだと理解します。