教会のイメージ②

"ONE PEOPLE"/JohnR.W.Stott より

 聖書における教会についての比喩のうち、他の四つもまた、神がその民との間にに樹立された関係を示している。それは、さらに別の深い意味をも含んでいる。

 まず第一に、神の民は、神の支配下にある領域、「その支配」、「王国」と呼ばれる。イスラエルにおける王制の始まりは、人々が近隣諸国と同様の王を求めた時に成立したものとして、否定的な形で述べられている。しかしそれはキリストを通して回復され、霊的な意味で用いられる。私たちの救いにおいて神は、「私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移して」くださった。またキリストは聖霊によって神の民のうちで指導権を発揮される。というのは、「神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜び」だからである。

 第二に、神の民は「神の家族」として述べられる。イスラエルは「神の子ども」と呼ばれると旧約聖菩にぼんやりと示されていた事柄が、新約聖書においてはっきりと表現されている。キリストにあって神は私たちを新たに生れさせ、私たちを神の子どもとし、養子として家族に受け入れ、神を「アバ、父」と呼べるように聖霊を私たちの心に遣わされる。イエスが教えたように、クリスチャン生活の大部分は、この神との親密な愛の関係によって決ってくる。私たちは生きるために欠かせないものについても心配する必要がない。なぜなら、天の父なる神は私たちの必要を知っておられるからである。私たちはむしろ、神ご自身、神の国、神の義に心を向け、私たち自身を神に任せ、神に世話をしていただくべきである。そうすれば、私たちに必要なものは与えられる。

 第三に、神の民は「人の手によらない」建物、神ご自身が建て上げる建物である。また、使徒たちや預言者たちが証ししたように、イエス・キリストを唯一の土台として再建された神殿であり、その聖所に聖霊の臨在がある。

 第四に、神の民は「キリストのからだ」である。これはパウロの手紙においてもっとも際だっており、旧約聖書にはないイメージである。そこにおいてキリストは、からだを統制し、養う頭であり、聖霊はそれにいのちを与える息である。


 これら四つのイメージはそれぞれ、神と民との関係を示すだけではない。それはさらに進んで、神の民のもつ互いの関係と義務をも示している。私たちは神の国の市民、家族の一員である兄弟姉妹、霊的家族に加えられ、霊の家を築き上げる生ける石である。言いかえれば、キリストのからだの一部であり、頭なるキリストからいのちと教えとを受けるだけでなく、自ら進んで積極的に活動し、また互いに助け合う関係をもっている。したがって、互いに軽んじたり、嫉妬したりしてはならない。