「霊と肉を見分ける」

自分がしていることや、教会がしていることが、

聖霊に導かれている働きなのか、

肉に導かれている働きなのかを

みわけることは大切なのです。

聖霊の働きの方向性は、イエスキリストを証しすることで、

エスを真ん中にして、人と人とが愛によって繋がれていきます。

一方、肉の働きの方向性は、自分自身のプライドを強めていくことになるので、

プライド高い人と人とが、小さなことで衝突し、争い、分裂していくことになるからです。


自分がしていることや、教会がしていることが、

聖霊に導かれてやっているのか、

肉に導かれているやっているのかは、

どのような「実り」を結んでいるかによって、

やがて明らかになります。

一見、良い行いや、愛の行為にみえて、

やればやるほど、言えばいうほど、

イライラしたり、関係が悪くなったり、

自分は正しいと、プライドが高くなっていくようなら、

それは肉に導かれてしまっているのであり、

その末路は、残念なことになるでしょう。

聖霊に導かれるならば、

やればやるほど、言えば言うほど

自分は小さくなっていき、

エスキリストこそが、大きくあらわされていくのです。


使徒パウロの言葉

「肉の行ないは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。・・・・・

しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。

キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。」(ガラテヤ5:19-24)

「ピンチはチャンス」

1年半ほど前に、教会の月報の巻頭言に書いた原稿の一部です。

 2050年の日本の教会についてイメージしたことがありますか。

日本の人口減少はある程度予測可能で、労働者は現在の6426万人から4228万人に減るのだそうです。

日本の市場も経済も3分の2になります。

右肩上がりの経済成長の時代はもうこないでしょう。

戦後の経済成長の時代に建てられた多くの教会は、経済の成長とともに教会も成長し、

経済の停滞と共に教会の活動も停滞、そして衰退しているように見えます。

そのようななかで、今後、右肩上がりの時代に形成された、教会活動、伝道方策、組織論などが問い直され、

より一人ひとりが大切にされ、互いに支え合う共同体という、教会の本質へと向かっていくように思っています。

どのような立場であろうと、互いの尊厳を認めあい、

共に悲しみ、共に喜ぶ仲間となり、繋がりあっていく方向へ、

さらに日本の教会は向かっていくことになると思っています。

 具体的なイメージでいうなら、今までの参加者の人数を数えては一喜一憂するような、集会中心、イベント中心の教会のありようから、

人と人とのパーソナルな繋がり中心、絆中心の共同体形成へ向かっていく、ということです。

 昔の日本には、20万人のキリスタンがいたと言われます。

そのとき神父の数は40人。5000人に1人の神父だったのだそうです。

それでも信徒の信仰が保たれていた背景には、互いに助け合う「コンフラリア」という信徒のネットワークがあったからでした。

その助け合いの共同体のなかで、聖書の教理も学ばれていたようです。

まさに、わたしたちバプテストが大切にしてきた、相互牧会の姿です。

 信徒しかいないので、信仰が維持できないということはありません。

どの時代にあっても、困難な時代ほど、信徒同士が互いに聖書を学びあい、祈り会い、支え合うことで、信仰共同体は守られてきました。

右肩上がりの時代には、牧師も旗振り役のようなリーダーシップが求められましたが、

これからの時代は、教会の本質に立ち返り、信徒の信仰共同体を支えるサポーターとしてのリーダーシップへと、ますます移行していくでしょう。

 そういう意味で、これからの日本の教会は、大きなチャンスを主から与えられたのだと思っています。

経済成長と共に、自分だけの祝福を求めてつどう、バラバラな個人の集いから、

互いの弱さを支え合い共に生きようとする共同体へ。

現代ますます家族や地域という支え合う共同体が弱まるなかで、

信仰共同体のもつ繋がりの強さ、互いに支え合い祈りあえる仲間の価値。

ここに「神の国」の希望が見えることを証していく、新しいチャンスを迎えています。

いつでも、ピンチはチャンスです。

ルカによる福音書12:32
「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる」

「恐れず語り続けよ」(2018年2月4日花小金井キリスト教会主日礼拝メッセージ)


使徒言行録18:1-11

今朝は、少し寒さが緩んだでしょうか。金曜日に降った雪も、だいぶ溶けて少なくなりました。

あらためて考えてみると、「雪かき」という労働は、報われない働きですね。

重い雪を運び続けても、結局みんな溶けてなくなってしまうわけですから。

そういう意味で、雪国のかたは、本当にご苦労だと思います。

わたしも山形にいたとき、冬に東京に出張でやってくると、思ったものです。

「東京はいいな。空は青いし、雪かきのような、無駄な苦労を、しなくていいのだから」と、内心思ったものです。

もし、雪国の人と、冬に東京で会うようなことがありましたら、おそらくその方は内心で、「いいなぁ、東京は」と思っていますから、ぜひ、「雪国は雪かきが大変ですね」と、ねぎらってあげてくださいね。

でも、今、わたしは思うのです。

確かに、目の前のことだけを見れば、無益に思えた働きも、神の目には、決してそんなことはないのだと。

あんなに苦労して運んだ雪が、春には溶けて、結局、なにも残らなかったように思っていた、その雪が、

実は、溶けて大地を潤し、やがて、豊かに豊かに、地面から新しい命を、農作物を実らせることになるのです。

山形にいたとき、地元に人から、「雪が沢山降った年ほど、豊作になる。雪が降らない年はだめなんだ」と教えてもらいました。

天地を造られた神さまは、決して無駄なことはなさいません。

それは「伝道」「福音を伝える」という働きも、まさにそうです。

「十字架に死んだイエスは、復活し、あなたを救うメシア、キリストとなったのです。このイエスを信じ、罪の束縛から救われましょう。」


この福音を、あらゆる形で伝えつづけてきたのに、なにも変わらない、そんなむなしさを感じることもあるでしょう。

むしろ、福音を語ったことで、偏見を持たれたり、距離を置かれたり、そんなこともあるかもしれません。

最初の教会の伝道の様子が記されている、使徒言行録を、わたしたちは読み進んでいますが、

最初のクリスチャンたちは、主イエスの復活を語ることで、ユダヤ人から罵られ、迫害さえされたのです。

目の前のことだけをみるならば、伝道という働きほど、報われない働きはありません。

むしろ、こんなことになるなら、やめておけばよかったという、辛いことが多い働きです。

しかし、目の前のことだけを見るなら、そう見える「伝道」という働きを、

しかし、あきらめることなく、やり続けた教会は、

やがて、エルサレムの小さな群れから、いつのまにか世界中へと広がり、

今、2000年の時を越えて、この花小金井教会を誕生させたのです。

そして、わたしたちも次の世代に向けて、福音を伝え続けます。

雪解け水が、やがて沢山の豊かな命を生み出していくように、

神の命の水、聖霊は、今もわたしたちの中で、豊かに働いておられます。

さて、一番最初の教会で、聖霊に動かされた人々の物語。

使徒言行録を、今日も、読み進めていきましょう。

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「なぜ怖がるの」(2018年1月28日花小金井キリスト教会夕礼拝メッセージ)

マルコ4章35節〜41節

人生には三つの坂があるという言葉を、ご存知ですか。

一つ目は、上り坂。まあ、若い時のことですね。
そして二つ目は、下り坂。年を重ねて、だんだんできることが少なくなっていくことでしょうね。

そして三つ目は、なんでしょう。
「まさか」です。


ある日突然、その「まさか」が起こる。それが、この地上で生きている、わたしたちの現実ですね。

違う言い方をすれば、人間は、ほんの少し先の未来も、分からないということです。

信仰的な言い方をすれば、神さまによって、未来は隠されている、と言えるでしょう。

明日なにがあるかわからないから、「不安だ」というよりも、

むしろ、明日なにがあるかが分かってしまう方が、辛いかもしれない。

明日、いやなことがあるとわかったら、もう、今日から辛くなってしまうでしょう。

なので、人間は、明日のこと、1分先のことさえわからないのは、

神さまの憐れみだと思います。

明日どうなっているか、10年後、どうなっているかなど、わからないし、わからなくていいということです。

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