自分がしていることや、教会がしていることが、
聖霊に導かれている働きなのか、
肉に導かれている働きなのかを
みわけることは大切なのです。
イエスを真ん中にして、人と人とが愛によって繋がれていきます。
一方、肉の働きの方向性は、自分自身のプライドを強めていくことになるので、
プライド高い人と人とが、小さなことで衝突し、争い、分裂していくことになるからです。
自分がしていることや、教会がしていることが、
聖霊に導かれてやっているのか、
肉に導かれているやっているのかは、
どのような「実り」を結んでいるかによって、
やがて明らかになります。
一見、良い行いや、愛の行為にみえて、
やればやるほど、言えばいうほど、
イライラしたり、関係が悪くなったり、
自分は正しいと、プライドが高くなっていくようなら、
それは肉に導かれてしまっているのであり、
その末路は、残念なことになるでしょう。
聖霊に導かれるならば、
やればやるほど、言えば言うほど
自分は小さくなっていき、
イエスキリストこそが、大きくあらわされていくのです。
「肉の行ないは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。・・・・・
しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。
キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。」(ガラテヤ5:19-24)