サムエル記上24章1節〜23節
先週、生まれて初めて沖縄にいき、沢山の出会いと出来事をいただいてきました。
「沖縄戦」の戦跡も巡ってきました。
アメリカ兵が上陸したのは、沖縄島の中部、真ん中あたりなのですね。ふつうは、その時、水際で上陸を阻止するものですけれども、日本軍はその作戦をしなかった。もうそんな力も残っていなかったですし、圧倒的な力の差を前に、勝てる戦いではなかったわけですから。
ただ、本土上陸までの時間を少しでも稼ぐために、沖縄の南部の自然の洞窟(がま)や掘った壕にひそんで、持久戦に持ち込んだわけです。
さて、先ほど読んだ御言葉は、サウル王に命ねらわれ逃げているダビデが、洞窟のなかに潜んでいたという個所でした。
そこに、ダビデの命をねらうサウルが、用を足すためにやってくる。しかもサウルは、その奥にダビデたちがいることに、きがついていない、完全な無防備な状態。
この洞窟の中でサウルとダビデが遭遇するという状況を想像するとき、これは実に緊張に満ちた場面だとあらためて思わされます。
沖縄の地上戦が、空から雨のように降ってくる砲弾から逃れて、兵士も市民も、洞窟に潜んでいたこと。その洞窟に、今回の旅でなんども足を踏み入れましたから、このダビデが洞窟に逃れていたという情景が、沖縄の洞窟の情景と重なってくるのです。
地上戦というのは、まさに、人間が、人間を殺しに来るという、その残酷さ、恐怖、罪がむき出しになる現場。
追い詰められ、洞窟に隠れていた人々の恐怖と絶望。
沖縄戦で生き残られた方々の証言の言葉に圧倒されました。そしてあらためて、このダビデが置かれていた状況を、そこからイメージし直したのです。
サウルは王です。3000人の兵士を率いてダビデを殺しに来ているのです。圧倒的な権力、軍事力を握るサウル。
そんサウルに憎まれ、命を狙われるダビデ。
ダビデは、どんなに恐ろしかっただろうか。外が明るいうちには、サウル軍の目を逃れて、外を出歩けなかったのかもしれない。
じっと洞窟の中にひそんでいたのかもしれない。
これは、かくれんぼをしているのではないのだ。見つかれば、相手は本気になって殺してくる。今まさに、殺そうとしらみつぶしに、ダビデを探しているのだ。
この恐れと、緊張感なしに、この洞窟に隠れていたダビデたちを、わたしはもはやイメージできなくなりました。
そうだとすれば、ここで相手の総司令官が、不用心に洞窟に入ってきたということは、まさに天が与えた一隅のチャンスではないですか。
ダビデの仲間の兵士が、この時こそ、神が与えてくださったチャンスですと、ダビデにいうのはまったく当然の心理。
ところが、ダビデは何を思ったのか、用を足しているサウルの上着の端を、ひそかに切り取っただけで、しかも、それをしたことさえ後悔しつつ、こういったのです。
7節「わたしの主君であり、主が油を注がれた方に、わたしが手をかけ、このようなことをするのを、主は決して許されない。彼は主が油を注がれた方なのだ」
この言葉は、平穏無事の時に語られたのではないからこそ重い。
その「油注がれた王」が、今自分のことを殺しに来ている状況の中において、ダビデの口からこの言葉が語られている、というこの計り知れない重み。そして決定的な信仰告白であると、言わざるを得ません。
その信仰、信頼とは、もちろんサウルへの信頼ではなく、サウルを王に立てた神への信頼であり、信仰。
ダビデは、サウルを恐れるよりも、主を恐れて、サウルに手をくださないのです。
そして8節で、仲間の兵士を説得し、そのあとダビデは、なんとサウルの後を追って、洞窟をでて、サウル自身にさえ、語りかけ、説得を始めたのです。
あなたに手をかけることもできましたが、わたしはあなたに対して、罪を犯しませんでした。なのに、なぜ、あなたはわたしの命を奪おうと追い回されるのです。
主があなたとわたしの間を裁いてくださいますように。わたしは手を下しません。
あなたが必死に追っているのは、一匹のノミに等しいものではないですか。
そうやって、ダビデはサウルを説得するのです。力ではなく、言葉で。
話せばわかると信じたからこそ、ダビデは思い切って、サウルに声をかけたのでしょう。
言葉で語ることを、あきらめないダビデの姿。
サウルには、なんども裏切られ、もう殺さないと約束しても、すぐ手のひらを返したように、ダビデの命を狙い始めるサウル。
そんなサウルに、何を話しても無駄だ。言葉が通じる相手じゃない。そう思って当然。そういう状況のなか、ダビデはサウルに語りかける。説得を始める。
きっとわかるはずだという信頼を、ダビデは捨てていないのです。
このダビデとサウルのやり取りは、実に緊張の場面。ダビデはサウルにこの場で殺されることも、当然覚悟たうえで、なお和解を願って、言葉を語るのです。
沖縄で、佐喜眞(さきま)美術館にいきました。ここは、もとアメリカの普天間基地の一部の土地を、交渉の末に取り返して立てられた美術館です。
美術館の屋上から、基地がよくみえます。よく米軍は返還したと思います。最初日本政府に交渉してもどうにもならなかったのが、アメリカ軍に直接交渉してみたら、美術館をたてることは悪くないと、話を聞いてくれて、結局取り返すことができたわけです。
どうせ駄目だ、アメリカに何をいっても聞いてくれないとあきらめていたら、この佐喜眞(さきま)美術館はなかったのです。
ダビデはサウルに語りかけました。そして、サウルはその言葉をきいてこういった。
「わが子ダビデよ、これはお前の声か」サウルは声をあげて泣き、ダビデに行った。
「お前はわたしより正しい。お前はわたしに善意をもって対し、わたしはお前に悪意をもって対した。お前はわたしに善意を尽くしていたこと、今日示してくれた。主がわたしをお前の手に引き渡されたのに、お前はわたしを殺さなかった。自分の敵に出会い、その敵を無事にさらせるものがあろうか。今日のお前の降る前いに対して、主がお前に恵みをもって報いてくださるだろう。」
このことばを聞いた時の、ダビデの心境を想像します。「サウルにわかってもらえた。わたしの誠意が伝わった。主よ感謝します。」
それはそれは、大きな喜びに満ちたのではないか。
しかも、サウルは自分の後に、ダビデが王になることさえ認めて、王になったら、自分の子孫を抹殺しないでほしい。名を消すようなことはしないでほしいということまで言う。
ここまでサウルにいわせるほど、ダビデの誠意は、サウルの心を動かしたということなのでしょう。サウルは声をあげて泣いたと書いてあることからしても、サウルはここで激しいまでの感動を、ダビデの言葉によって得た。激しく心を動かされた。
しかし、今日の出来事の最後は、こう終わります。
「・・・サウルは自分の館に帰っていき、ダビデとその兵は要害に上って行った。」
ダビデ、お前がやがて王になるとまで言ったサウル。しかしサウルは王宮に戻り、ダビデは要害、つまり隠れ家に帰っていく。
互いに、元の場所に戻ってしまうのです。なぜなのだろう。ここで和解が起こったはずなのに、サウルは激しく感動し、ダビデを認めたはずなのに。
なぜ、一緒に王宮へと戻らないのか。ここが、聖書の物語の不思議。人間の一時の感情を越えて、なにか大きな力が働いていることを暗示させます。
実はこの後、26章でも同じような出来事が起こるのです。サウルはまたダビデを殺そうと捜しまわっている。サウルはまた元に戻ってしまっている。
あの時の感動はどこに行ってしまったのか、あの時の言葉はどこに行ってしまったのかと思わずにはいられないサウルの姿がそこにあり、そしてまた、同じような出来事が起こり、サウルは、ダビデに命を救われるようなことが起こります。
そのときのダビデは、味方の兵士たちにこういうのです。
「主は生きておられる。主がサウルを打たれるだろう。時が来て死ぬか、戦に出て殺されるかだ。主が油注がれた方に、私が手をかけることは主は決してお赦しにならない。・・・」
前回と同じように聞こえるけれども、少しトーンが違う。「主がサウルを打たれるだろう。時が来て死ぬか、戦に出て殺されるかだ」といういい方をダビデはする。もう、サウルという男を、ダビデはあきらめているような、トーンがあるのです。前回、あれほどの感動の涙を流して、変わったように見えたサウル。でも、また同じところに戻ってしまった。そのサウルを、ダビデ自身も、もう見限っている。「主がいつかサウルを打たれるだろう」と、ある意味、さめたいい方をしている。
そのうえで、でも自分は、主が油注がれたサウルに、手をかけることはしない。主を恐れるゆえに、それはできない。そういういい方になっている。
何度も何度も、沖縄の海兵隊の兵士や関係者が、沖縄の女性を傷つける。なんどいっても、また同じことがおこる。もう堪忍袋の尾は、とっくに切れている。怒りを越えてしまっている。しかしそれでも、沖縄の人たちは、実力行使をするようなことはしない。ISのような、テロという力にうったえるようなことは、決してしない。力に対して、力で戦うというあり方が、どれほど愚かで、何も生み出さず、悲しみと破壊にいたるのか、ということを
地上戦の殺し合いの苦しみを、体験させられた沖縄の人々は、骨身にしみて知っているからではないかと、わたしは想像します。
主がサウルを打たれる。時が来れば・・・
さて、ダビデの時代から時が過ぎ、ダビデの子孫として生まれた主イエスこそ、この世界を救うメシア、キリストと信じる集まりが生まれました。
その主イエスこそ世界を救う「まことの王」と信じる人々に向けて、使徒パウロはこう語りました。
「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りにまかせなさい。「復讐はわたしのすること、わたしが報復する」と主は言われる。」と書いてあります。
あなたの敵が植えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」
自分の手で、復讐しなくていい。神に任せよ。
自分の手で、正義を実現しようとしなくていい、主に任せよ。
主がサウルを打たれる。時が来れば・・・
この信仰に立って、だからなにもしないで隠れていたのではなく、あえてダビデは、サウルの前に、再度立ってサウルを説得するのです。
主が導かれる。主が働かれる。主が正義を実現される。その主が実現して下さる平和への信仰の上にしっかり立ったうえで、
だからこそ、主が働かれると信じるからこそ、サウルへの説得をこころみ続けたダビデのありかたは、
今、この時代に、主を信じて生きるわたしたちの、生き方への問いかけとして、心に響いてくるのです。