「福音を告げる喜び」(花小金井キリスト教会 3月6日主日礼拝メッセージ)

ルカ10章1節〜20節


 先ほどは、先週の八王子めじろ台教会に遣わされた方々の証を伺い、恵みを受けました。

「相互訪問礼拝」というのは、「伝道」をしに行く「伝道隊」とは違うのですけれども、結果として、福音の「証」と「賛美」を携えて出かけていきますから、わたしたちの教会が遣した、小さな「伝道隊」のようなものですね。

そうやって、出ていって福音を分かち合って、こうして帰ってきて、喜びいっぱいに報告する。

 今日、たまたま、順番で読むことになったみ言葉の個所が、まさに、弟子たちが主イエスに遣わされ、出て行って福音を分かち合い、帰ってきて喜んで主イエスに報告した出来事ですから、不思議に重ります。

この、遣わされた、72人の主イエスの弟子たち。今日の個所を読むと、彼らは、財布も履物も持たずに、送り出されています。

今、自分がもっている力を、あえて置いていきなさいと、旅に遣わされたというわけです。

そのことをもって、神が確かに、あなた方の上に働いておられることを、つまり、神の国が確かに、ここにやってきていることを、

伝える者自らが、まず体験し、味わい、出ていきなさい、ということでしょう。

先週、八王子まで出かけて行った4人は、平均年齢は、ちょっと高めだったのですけれど、でも、出ていくに当たり、ちょっとだけチャレンジしたんです。

財布と履物は、持って行きましたけれど、賛美歌の譜面は、置いて行きました。皆さんの前で、賛美するのに、賛美歌の歌詞をみて歌うのはやめましょう。覚えましょうと、小さな、チャレンジをしたわけです。

小さなと言いましても、年齢が高いわたしたちが、新たに何かを覚えるというのは、かなりな、チャレンジなんですよ。

途中で頭の中がまっしろになっても、あとは、すべて主イエスにゆだねますと、神様に信仰の捧げ物を、したわけでした。

旅というのは、日常の生活から切り離されていく出来事ですね。日常生活の中で、当たり前のように存在し、自分を支え、守っているもの。

人間関係、仕事や立場、蓄え、財産、信用や地位。そういうものを、いったん置いて、一人の人間として、生身の裸の人となって、初めての場所で、初めての人と出会う。そこに旅というものの、本質があるんじゃないでしょうか。


福音書記者の、「ルカ」という人は、旅をする伝道者の姿をよく描きました。福音書のなかで、ルカだけが、12弟子の伝道の旅と、もうひとつ、この72人の伝道の旅を書いていますし、同じ「ルカ」が書いた使徒言行録などは、後半はほぼ、伝道者パウロの伝道旅行記であるわけです。

旅という、日ごろ、自分を支えている、目に見える支えから、切り離された現場で、

ありのままの自分。その人間の弱さ、限界が浮き彫りになる現場でこそ、人を活かし、命を与え、本質的に支えている神のめぐみが、証されていくのでしょう。

この72人の伝道の旅に遣わされた弟子たちも、出会う人々に「神の国が近付いています」、「今、確かに神は働いています」「わたしたちを通して、わたしたちをつかわした、主イエスを通して、神は働いています」「神の国は近付いたのです」と、

出会う人、出会う人に、本心から語り伝えていく、そのためには、

どうしても、日常から抜け出して、自分の財布と履物を置いて、自分が築いてきた、城からでて、裸の人間として、神の恵みを体験し、味わい、伝えていくようにと、招かれたわけです。

そういう、自分を守っている、いわば「お城からでる」という、チャレンジは、自分の力では無理でしょう。

神の愛によって、押し出されなければできないことです。

ですから、イエス様はこういうことを言われます。

2節ですね。

「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」


財布や履物に象徴されている、人間的な力、能力、支えを置いて、

なにができても、できなくても、ただ、神に愛され、神に活かされているその平安と喜びを、証をしたい。

神の国の喜びを伝えたい。そういう働き人が起こされるのは、人間の努力でも熱心でもなく、収穫の主である、神がなさること。

人は、神に愛されていることが分かって初めて、必死になって自分を守ってきた、自分のプライド、力をそこに置いて、

主の愛を証する働き人になっていくのです。あの使徒パウロが、かつてエリートの律法学者であったことなど、キリストを知ることに比べれば、無に等しいといったように。

神の愛こそが、人を、神の働き手にします。

そのような人のことを、主イエスは3節で、別の言い方でこういいます。

「行きなさい。わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに小羊を送り込むようなものだ」と

水曜日の夜のお祈り会の時、イスラエルには今でも野生の狼がいるのだと、ある方から教えていただきました。

きっと当時のイスラエルの人にとって、「小羊を狼の群れに送り込む」という表現はリアリティーがあったことでしょう。

明らかに力の差がある、小羊と狼。そして、福音を語ること。福音のために働くことは、狼になることではなく、小羊になることなのだと主イエスは言われます。

この世の力を利用し、強い立場に立って、上から押しつけ折伏するのが、伝道ではなく、

むしろ、財布も履物も持たず、小羊のようにあえて弱い立場におりていき、旅先では、人の世話になりながら、そういう小さきものとして、福音を語るのだというのです。

メディアを駆使し、影響力ある有名人の口から、福音を語るよりも、

むしろだれも知らない、なんの立場もない、お金もない、無名な人となり、

ただただ、神が共にいてくださることに、神が働いてくださることに委ねて、目の前の一人、ひとりとまっすぐに出会う。

それはある意味、完全に「アウェー」な状況、現場です。相手の本拠地、生活の現場に、何の立場もないものが、素手で入っていくのですから。

相手のために、何かよいことをすることもできず、むしろ、相手から世話をされる、無力なものとして、福音を語るのです。

どこかの家に、平和の内に受け入れてもらったなら、そこの家の世話になり、出されるものを食べなさいと、主イエスは言われます。

お金はないのです。ただ世話になるしかない。プライドなどぼろぼろに砕かれるしかありません。まったくの無力。

でもそういう無力な彼らを通して、神は働かれ、町の病の人が癒されていったと書いてあります。

金がなかったからこそ、神が働かれることが、あらわになったということです。

これで思い起こすのは、使徒言行録の3章で、美しの門という神殿の門のそばで、物乞いをしていた足の不自由な人に、通りかかったペトロとヨハネが言った言葉です。

「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレ人イエス・キリストの名によって立ちあがり、あるきなさい」

そういって、あの場所で物乞いをしていた人が、実は、本当に必要としていたのは、金ではなく、神であり、神の救いをペトロはもたらしたのだという、あの出来事を思い起こします。

人間の目には無力で、弱く、小さい者の中にこそ、

金ではなく、神の働きが、神の国の恵みが表れていくのでしょう。

しかし、多くの町や村は、受け入れませんでした。コラジン、ベトサイダ、カファルナウム。それは、みんなイエス様のふるさとの町や村です。

小さなころから、主イエスをよく知っていた人々は、あれは大工のせがれではないかと、思いこんでした。

その固定観念に縛られていた人々。

あのイエスのなかに、そして、イエスが遣わした、このよわよわしい弟子たちの中に、

神が働いておられることを信じられない、頑なな心。それは、わたしたちもまた、同じでしょう。

自分の思いこみ、価値観に捕らわれてしまい、今、すでに働いておられる、神の働きがわからなくなることが、私たちもあるからです。

この人のいうことに、耳を傾ける必要はないと、自分の価値観に縛られて、結局、その人を通して語っておられる、神の語りかけが聞こえなくなるからです。


この、大工のせがれのイエスが何を言うかと、耳をふさいだ人々のように。

弱く無力な、小羊のようにされた、弟子たちの口を通して、神が語っておられたように。

16節で主イエスは弟子たちにいわれました。

「あなたがたに耳を傾ける者は、わたしに耳を傾け、
あなた方を拒む者は、わたしを拒むのである。
わたしを拒む者は、わたしを遣わされた方を拒むのである」と


逆をいえば、神様は主イエスを信じる小さな無力な人、キリスト者を通し、福音を語り、宣言なさるのです。

その人がどういう人であろうと関係なく、神が働かれている喜びの宣言を、自由と解放の福音の宣言を、わたしたちは語ることができるのです。

たとえば、奴隷制度がある国で、大統領が全国民に「奴隷解放宣言」が宣言されたようなものです。

その宣言によって、奴隷の立場の人は、奴隷から解放されたことを知り、喜びにあふれるでしょう。

でも、まだ、その解放宣言を聞いていない、奴隷の友達がいたら、どうするでしょうか。迷わずその人に、

「すべての奴隷は解放された」と、宣言するでしょう。

自分など、そんな宣言をする資格はありませんとか、自分が言えた義理じゃありませんとか、こんなこと言ったら、押しつけになるから、言いませんとか、そんなことを言うはずがありません。

迷うことなく、相手を喜ばせたい一心で夢中になって宣言するでしょう。

「あなたはもう解放されているんですよ。自由なんですよ」

大統領がそう宣言したんです。わたしはそれを聞いて、あなたにも伝えているんですと、いうでしょう。

わたしたちも、神が主イエスを通して、宣言している、この喜びの知らせを、ただただ、喜びを分かち合いたい一心で、夢中になって語るのです。

神の国は近付いたのです。神の国はもう主イエスにおいて、やってきているのです。

遣わされた72人の人々は、その宣言をして回り、主イエスのところに帰ってきました。

主イエスは、弟子たちに、「サタンが稲妻のように、天から落ちるのを見た」といわれ、悪い者が地に落ち、天において、神の国は実現したことを語ります。

もう、「奴隷解放」は実現した。後は、その宣言によって、悪い者を追い出し、人々を解放し、この地に神の国が実現していくための、。

権威を、あなた方に授けたのだと、主は言われます。

わたしたちもまた、福音という奴隷解放宣言を、あの人に、この人に語る働き人。

あなたが今どんな状態であろうと、どんなに失敗しても、情けないと失望しても、

あなたをこの上なく、神に愛されているのだから、恐れないで。神は、いつまでも、いつまでも、あなたと共にいるから。

そう福音を宣言し、悪霊を追い出す、わたしたちは、福音の働き人。

わたしたちが、それをするのは、悪霊が服従するからでも、この世の力を求めるのでもなく、

ただただ、天に名前が記され、神に覚えられ愛されている自分を見出した、その喜びに押し出されて、

福音を語るのです。