知られている平安

今日の黙想
詩編139編

「主よ、あなたはわたしを究め
わたしをしっておられる」1節

自分のことは自分がよく知っていると、「思い込んでいる」もの

しかし、自分でも自分の本心を欺く、「自己欺瞞」や、出来事の解釈を、自分に都合のいいようにしてしまう、「作話」、つまり言いわけをしがちなもの。

弱く、いい加減で、罪深い、本当の自分の内面を、

自分自身が受け入れられず、向き合えないゆえに、

自分自身の心の叫びさえ、封印してしまい、

その行き場のない自分が、

鬱などの、心の病や、体の病として、あらわれてくることもあるのだろう。


しかし、この詩編はこう歌う。

「わたしの舌がまだひと言もかたらぬさきに
主よ、あなたはすべてを知っておられる」4節

言葉にするまえに、言葉にならない思いも含めて、人の内面の奥底まで、主は知っておられると歌う。

「知られる」ということが、不安となるか、平安となるかは、その相手への「信頼」によるのだろう。

信頼できない人に、本当の自分を知られることは、利用される可能性があるので、不安を引き起こす。

しかし、愛と信頼をおく存在に、本当の自分を知られることは、その本当の自分が受け入れられ、愛され、信じられているのだ、という平安と喜びへつながる。

主の愛を信じること。

自分のすべてを知っておられる主に、その自分が受け入れられ、愛され、信じられていることを、信じて

「主よ」と祈る。余計なことはいわなくてもいい。もう、知られているのだから。

そして主の語りかけに、心の耳を開く

「わたしの目には、あなたは高価で尊い
わたしはあなたを愛している」

そう言ってくださる主に知られている。

ここに行き場のない自分の、

奪われることのない平安と喜びの源泉がある。