21日の礼拝メッセージ

ルカ5章33節〜39節
メッセージタイトル「新しい喜び」

先週の日曜日の午後は、「牧師の就任式」をいたしましたけれども、「よいひと時だったなぁ」と、思いだすたびに、「しみじみ」としてしまいます。

4月に就任して、ふた月半がたちましたけれども、なんだか、一緒に生活を始めてしまった二人が、家族親族・友人を招いて、精一杯の手作りの結婚式をしたような、

・・・ちょっと、譬えがよくなかったですね。


でも、21もの教会から人々が集まってくださったんですよ。その、一つ一つの教会が、確かに、花小金井教会に、新しい牧師が就任したことを、見届けてくださって、
おめでとう。良かったですねと、お認めいただいて、お祝いしていただける。この関係、繋がりの豊かさこそ、教会の財産だなぁと、つくづく思います。

大井教会の、加藤牧師の聖書のメッセージ、吉高常務理事の祝辞、中田連合会長の祝辞も、とても励まされました。

特に中田先生は、昔、同じ教会で牧師をしていましたから、ちょっとした裏話を小ネタにして、皆さんを引き込む祝辞を、してくださって、実に尊敬すべき先輩だなぁ、見習わないとと思いましたね。

かくいう私も、毎週、毎週、出会ったことや体験したことを、説教の小ネタにしてですね、

神さまは、ちゃんと働いてくださっている。良いことをしてくださっている。そんな神さまの出来事を、みんなで喜びあいたいんですよ。

今日は、「新しい喜び」というメッセージのタイトルでしょう。「新しい喜び」が、いくつもあったんですよ。

まず、今日のオルガンの奏楽は、HSさんがしてくださっています。3度目なんですけど、礼拝の最初から最後まで全部弾くのは、今日が初めて。きっとドキドキしながら、チャレンジしてくださっているんです。これまさしく「新しい喜び」でしょう。9月にはお腹の中の、あかちゃんとも出会えますしね。「新しい喜び」いっぱいです。

昨日は、オリーブ会という教会の中堅どころの集まりがあったんですね。「中堅どころの集まり」でいいんですかね?
そこに集まった10数人。もう、中には30年近く、顔をあわせている人もいらっしゃるでしょう。短くても5年とか10年とか
でも、昨日はそれぞれの夫婦の出会いとか、教会に導かれたいきさつとか、とても深い話、突っ込んだ話になって、お互いに、「初めて聞いた」「初めて知った」という、新たな出会いを、小さな、「新しい喜び」を、またひとつ、経験したんですよ。

テレビのニュースを見続けていると、メディアはどうしても、悪い出来事ばかりを取り上げますから、なんだかだんだん、お先真っ暗のような、暗い気持ちになっていきませんか。

でも実は、なかなか気がつかない所で、テレビのニュースにはならないところで、
神さまは、実にたくさんの「新しい喜び」を、沢山の良い出来事を、ニュースを、起こしておられる。

ああ、確かに神さまは、今日も、働いておられる。今日も良いことを、新しい創造を、行っておられる。

心を少し開いて、そんな小さな「新しい喜び」の出来事に気づいて、喜びあって、神さまがおられるから大丈夫って、励まし合いたい。

もちろん、この世界には、たくさんの試練や苦しみがあるのも事実。

週報の報告欄にも、書いてありますけれども、23日(火)は、女性連合が「沖縄の日」「平和を祈る日」として毎年覚えて祈ります。

沖縄の痛み。基地のこと。神さまの憐れみを祈ります。

震災の被災地に生きる人々のこと。直接私たちにできることに限界があるからこそ、神さまの憐れみを祈ります。

「安保法案」のこと。原発の再稼働のこと。そうやって、数え始めればきりがないほど、この日本には、世界には、数々の不安や痛みが、

試練や苦しみが、いまだあるし、そういういわば、十字架を背負って歩まされている、この世界ではあるけれども、

しかし、そのようななかにも、復活の主は、今日もきっとなにか良いことを、よい業を、新しい創造の喜びを、起してくださっている。

そもそも、神さまが、この世界を良いものとして造って、始めた歴史なのだから、

人間の愚かさ罪深さで、混乱することがあっても、試練や苦難の十字架はとおるとしても、

最終的には、人間ではなく、神が、この世界を救い、神が責任をとって、完成します。

そう信じるわたしたちは、ですから主の祈りで、

「御心が天でなるように、地にもなりますように」と、祈り続けます。

「福音」。それは、そもそも、良い知らせ、「グッドニュース」ということなのですから。

この世界がどれほど、バッドニュース、悪い知らせに溢れていようと、わたしたちは、グッドニュース。良い知らせ。この福音。

神が、この世界を救いだすために、「主イエス」を与えてくださった。

「神はそのひとり子をお与えになったほどに、この世を愛された。」

だから、大丈夫。主イエスは、今日も生きて働いてくださっている。

この福音。「主イエス」という新しい命に生きるのが、わたしたち。


先ほど朗読していただいたみ言葉でいうなら、わたしたちは、

新しいぶどう酒をいれる、新しい革袋ということです。

「主イエス」が来られ、「主イエス」を内に入れて、共に生きる1人1人。新しい革袋

ですから、わたしたちは、もはや、「主イエス」を知らない古い生き方には、戻れない。

「主イエス」ではなく、「自分を信じ、自分の力」に頼る生き方には、入れ物には戻れない。

そういう古い生き方、古い革袋にはおさまらない、新しい命を喜び、救いの希望、「主イエス」を、

この新しいブドウ酒を、わたしたちは内に入れて生きる、「新しい革袋」なのですから。


さて、今日、朗読された福音の言葉は、そもそも、「断食」ということがテーマだったのです。

バプテスマのヨハネの弟子たちは、たびたび断食し、祈りをしている。
ファリサイ派の弟子たちも同じようにしている。
なのに、あなたの弟子たちは飲んだり食べたりしている。

そのようにイエスさま、弟子たちは批判されたのです。

昨日のオリーブ会でも、「断食」が話題になったんですよ。

一緒に、美味しいお弁当を食べながら、「断食」の話し。

俳優の榎木 孝明(えのき・たかあき)さんが、30日の断食、「不食」というそうですが、をしたんだってね、ということが話題になったんです。すごいですねぇ。危ないですから、真似しないでくださいね。

でも、そもそも、食事の準備をしなくてよくて、楽ですよねぇ、なんて、そんなことをいったら、Kさんが、「でも、食べる楽しみがないねぇ」って、

断食をやられたことがある人は、分かると思いますけれども、実は、ある程度続けると、空腹感というものは、なくなって、楽になるし、むしろ頭がすっきりしたりするんです。

苦行というなら、むしろほかのこと、不眠とか、滝に打たれるとか、そういうものの方が苦行にはふさわしい。
断食は苦行というよりも、むしろ、食の喜び、楽しみを、一定期間放棄する、ということではないですか。

マタイの福音書では、イエスさまは、ファリサイ派の人々に向かって、「断食するときは、あなたがたは偽善者のように沈んだ顔つきをしてはならない。偽善者は、断食しているのを人に見てもらおうと、顔を見苦しくする」と、山上の説教の中で言っています。

エスさまの時代のファリサイ派の人たちにとって、断食とは、あえて、楽しみを放棄し、暗い顔をして、自分は頑張っていると、他人に見せるデモンストレーションになっていたわけでした。

ですから、イエスさまと弟子たちが、断食もせず、楽しそうに、飲んだり食べたりしているのが、気に入らなくて、

なんで、あなたたちは、こんな暗い時代に、そんなに楽しげに、飲んだり食べたりしているのかと、
批判せずにはいられなかったのでしょう。

ファイサイ派の人たちは、週に二日、熱心に断食をしていたといわれますけれども、その理由として

ある牧師の説教集のなかに、こんな説明がありました。

「なぜ、この当時の人々は断食を重んじたのか。それは、断食をすることによって、神が来られるのを早めようと思ったからだという、説明があるというのです。
神さま、この世界を見放さないでください。わたしたちユダヤの民を見放さないでください。早くわたしたちを救ってください。
何もしないでいると、神も何もしてくださらないかもしれない。早く神が来てくださるようにと断食をして、神のみわざを早めようとしたというのです。」

なるほど、そういう背景が合ったのかもしれません。

当時のユダヤの状況を考えれば、その可能性も理解できます。

ローマという大国に支配されて、自由も奪われて、税金をとられて、そんなローマを倒そうと、愛国主義者が、わたしがメシアだ、ついてこいと、なんどもあらわれ、反乱をおこし、消えていった時代。そんな不穏な時代。

それがイエスさまと弟子たちが、楽しそうに、飲み食いしていた時代だったのだから。

今、この日本に生きるわたしたちも、なにか大きな国にいわれるままに、されるままに、なっていると、そんなことを言う人がたくさんいる、時代。

不穏な時代。試練の時代。

そんな時代を生きる、わたしたちも、このユダヤの熱心な宗教家たち、ファイサイ派の人たちが、断食して祈ろうとした、気持ちが、何となくわからなくもないのではないですか。

こんな暗い時代なのだから、教会はもっと真剣に、断食してでも、祈るべきじゃないか。

なんで、教会は、「飲んだり食べたり」、就任式なんかやって、楽しそうにしているんだ。

そういう批判が聞こえてくるかもしれません。

エスさまは、当時の熱心な宗教家たちから、そのように問われたとき、こうお答えになりました。

34節
「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客に断食させることがあなたがたにできようか」

今、この場、この時、この世界は、花婿がやってきた喜びの婚礼の場、祝宴の場であることが、わからないのですか。

目の前の状況がどうであれ、試練や困難の時代にみえようと、今、

神が遣わした、救いの花婿が来られた、婚礼の場、祝宴の場に、断食などふさわしくないのだから。


つまり、人間が、断食をしようが、しまいが、そういう努力が、このユダヤを救うのでも、この世界を救うのでもないのだから。

この世界を愛して、創造された神が、この世界を最終的に、決定的に救う方として、

「主イエス」をこの世という花嫁のための、花婿として、与えてくださった。


この祝いの席に、断食など必要ないのだから。


確かに、この後、イエスさまは十字架につけられ、奪い取られるように見える時がくる。その時は、弟子たちは、悲しみの断食をするでしょう。

それは、この世界も、私たち1人1人の人生においても、十字架を背負う苦しみをとおることがあるように、

自分の力ではどうにもならない現実に、限界に直面させられ、食べ物など、のどを通らない時を経験するように。

でも、その十字架さえ、悲しみさえ、すべては、神による復活、神の救いへと至るプロセスなのだ、ということを、

わたしたちは信じ、つどう、新しい革袋。

主イエスの復活を信じるとは、そういうことです。


あの、イスラエルが、なんどもなんども他国に侵略され、苦しみ、しかし、その度に、神によって救出されていった、その神の歴史のクライマックスに、

失われた羊を見つけ出し、救いだし、新しい命をあたえる神の救いが、主イエスさまにおいて、実現した。



旧約聖書預言者、エレミヤが、それをこう預言していました。


31:31 見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。
31:32 この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。
31:33 しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
31:34 そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。


ですから、目の前の状況がどんなに暗くても、不穏な時代であっても、

エスに出会ったわたしたちは、天の神に知られ、神に愛され、神が共におられる、神の民となりました。

わたしたちが、断食したからでも、苦行したからでもなく、神がそうしてくださいました。

この神の救いの喜びを、共に祝い、喜ぶために、毎週わたしたちは、集います。

一週間の歩みの中で、いつの間にか、恐れという鎖につながれ、閉じ込められていた牢獄から、

出るためのドアを、開いてくださるイエスさまに出会うために。

目の前の状況を超えて、神は今日もよいことをなさっている。良い働きをなさっている。

復活のわざを行っている。そのグッドニュースに出会うために

自分で頑張り、自分で救い、自分で切り開けるという、古い布切れ、古い革袋を捨てて、

エスが救い、イエスが開く、新しい道へと、未来へと、

開かれたドアを通り抜け、ここからまた、新しい世界へと、わたしたちは歩み始めていくのです。

新しいぶどう酒である、イエスさまを入れて生きる、新しい革袋。教会に生きるわたしたちは、

ただただ、イエスさまをみあげます。新しいぶどう酒であるイエスさまを見上げます。

限りある自分の、行い、断食、苦行ではなく、

ただ、このお方を、新しい命であるイエスさまを見あげ、このお方と繋がります。

「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」
(2コリント 5:17)

そうパウロはいいました。

キリストと結ばれているわたしたちは、新しく創造され、新しい命を宿す、新しい革袋。

なんと感謝なことでしょうか

祈りましょう