あるブログに、
『人には「大事な人には言えない」ことがあるのです。これからも長く、お互いの人生において関わっていくことが確定している人には、安易に話してしまえない、そういうコトがあるのです。』
という言葉があって、考えさせられました。
年老いた親が、子には自分の体の不調をあまり言わないとか、子どもが学校でイジメられていることを、親にはいえないとか、リストラされた夫が、妻には隠して、毎朝家を出かけているとか
信頼関係がないとか、関係が壊れているからではなくて、むしろ、関わりがあるからこそ、自分の中にある苦しみを伝えられない、ということがあるもの。
むしろカウンセラーや、夜の飲み屋のお姉さんなど、他人のほうが、本音を話しやすいということがあるもの
それはなぜなんだろうと考えてみると
関係があるひとに悩みを話すことは、そこに利害関係があるがゆえに、話を聞くだけではおわらず、その悩みに、巻き込むことになるから でしょう。
「心配をかける」「迷惑をかける」「余計なことをされる」
話だけでは終わらない、「生活、利害を共にするという関係性」ゆえに、話さえ出来なくなることがあるもの
しかし、一方で、全く関係のない人に、ただお金を払って話を聞いてもらうことが、最善とは思えない。
人はどこまでいっても、関係を求める生き物だから。
そこにこそ、教会の、神の家族という関係領域の可能性が、
つまり、「生活や利害をともにしない」他人同士でありつつ、
同じ神を共に礼拝する関係ゆえに、
自分の弱ささえ正直に語り合い、分かち合い、祈りあえる
「神の家族」といわれる関係性に秘められた
非常に現代的かつ重要な、価値と必要性が
あるんじゃないかな。