最後の週報巻頭言より

 今日で、この場所での礼拝は最後となります。これまで、この場所で共に礼拝した日々の恵みを心から主に感謝いたします。

 もちろん、違った形にはなりますが、のぞみ教会はこれからも続いていきます。その意味では、神さまの酒田での働きは何も変わることなく続くのです。ただ、目に見える形としては、教会の建物と、藤井牧師という存在のいた、のぞみ教会は、今日で終わることになります。それは始まるための終わりです。

 わたしは毎日、朝の連続ドラマを見ています。「マッサン」は昨日の28日が最終回でした。マッサンとエリ―の夫婦愛の深さゆえに、そのエリ―が亡くなることは、夫のマッサンにとって深い悲しみです。しかし、エリ―が天に旅立つ時が近いとわかったときから、その残された最後の時、二人で歩んできた人生の物語を語り合い、その出会いと出来事のすべてを感謝しあう二人の姿に、感動させられました。そのときにはわからなくても、人生におけるすべての出会い、別れ、出来事、その人生の物語は尊い神さまからのプレゼントなのです。

 さて今日の礼拝で読むみ言葉は、イエスさまの十字架の箇所になります。そこに至る十字架への歩みの箇所を読み進むとき、イエスさまの苦しみを直視させられ、心苦しくなります。しかし福音書は、ただイエスさまの苦しみだけを描写しようとして、十字架の出来事を書いているのではないのです。むしろイエスさまが十字架の死へと押し出されていったそのまわりで、人々がなにを思い、なにを語り、なにを行ったのか。その人々の物語こそが、細かく記されていることに気付くのです。

 その人の罪のゆえに悲惨な最後を迎えなければならないイエスさまは、ご自分の人生の物語の最後に、神に問うのです。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と。このイエスさまの人生最後の問いに、答えることができるのは、人ではなく、いつも共にいた天の父なる神です。そして神はイエスさまを「復活」させ、その問いに答えたのです。同様に、のぞみ教会といつも共にいてくださった神は、人には計り知れない神の答えを用意して、こののぞみ教会の物語に、答えてくださる日が来るでしょう。