(写真は、礼拝のなかでルワンダのジェノサイドの出来事を、わかりやすく紙芝居で子どもたちに語ってくださっているHくん)
わたしたちが花小金井にやってきて、2週間。
そろそろ移動や環境の変化の疲れがでる頃かな、とおもうのだけれども、大丈夫です。
毎日飛んでいるトランポリンのおかげでしょうかね。
さて、心配していた方が、今日は元気に礼拝にこられて感謝でした。
あらためて、日曜日に互いに教会で顔をあわせることが出来たこと。それは決してあたりまえではない、ことなんですよね。
その背後には、一人ひとり、それぞれに乗り越えなければならないものを、乗り越えて、教会に体を運んでいるわけだから。
もしかしたら、今日が最後、ということさえあるかもしれない、二度とこない、その日の礼拝なのだから
ああ、教会にこれてよかった。顔をあわせて一緒にお祈りできてよかった。
もう、思い残すことはない。というくらいの気持ちで、毎週の日曜日を過ごしたいな。
午後は、酒田で過ごしてきた8年半のことを、教会の皆さんに分かち合い。
わたしの話が終わった後、司会のkさんが、酒田でやっていたわたしたちを、花小金井教会によんでしまって、よかったのかな、という感想というか本音を、ポロっと語られたのだけれど、
もうこれは、「召命」の事柄なんですよね。人間の理屈や、責任の話ではなくて、神が召されたと信じて従う、信仰の話しなんです。
そのあとキリスト教出版関係の方と少しお話したのだけれど、仕事柄、様々な社会的な課題と向き合っておられる方なので、いろいろと興味深い話を聞かせていただいたんです。
そう、この社会にはじつにさまざまな課題がある。知れば知るほど、その課題の大きさ、深刻さに圧倒されるでしょう。クリスチャンとして、なにかしなければ、関わらなければ、と知れば知るほど感じるし、自分の力の限界、無力さを知らされていくはず。
だからこそ、自分の召命はなんなのか。神さまによって、なにをするようにと、自分は召されているのか、ということを、祈り求めて、しっかりと握り、そのことに集中することが、重要なんです。
あの課題、この課題、あれも、これも、重要だ、大切だ。
そういう問題山積の世界の中で、課題や問題に押しつぶされるのではなく、
神さまから、自分がするようにと召されている、小さな働きに、
忠実に仕えていくこと
後は、歴史の主である、神さまがちゃんと責任を取ってくださるのだから、わたしがこの世の問題のすべての責任を取ろうと、しなくていいんです。
わたしたちは、神ではないのだから
礼拝とは、わたしたち一人一人を愛し、なにか目的をもって命を与えてくださった神さまとの出会いの場であり、
神さまは、今、み言葉を通して、わたしたち一人ひとりに、語りかけてくださっている。
誰と出会い、誰と共に生き、誰に仕え、誰を愛するのか
礼拝につどうごとに、
心の耳を澄まして、神さまの声を聞いていきたいのです