前にもブログに書いたけれど、夫って妻から愛されるより、尊敬されたいものなんですよ。
子どもをみているとわかるけど、男の子は「あなたのことが大切だよ」といわれて元気になることもあるけど、「すごいね」ってほめられたほうが元気になるんだよね。その点女の子とはちがうよね。女の子は「すごいね」といわれるより、やっぱり、「大切だよ」のほうがいいでしょう。
だから、男の子である夫は、妻から「すごいね」って言われたら元気になるし、女の子である妻は夫から「大切だよ」って言われたら嬉しいんじゃないかな。
反対に、夫は妻から尊敬されないと、妻を愛することが難しくなるものなんです。そして妻は夫から愛を感じなければ、尊敬なんてできないでしょう。
夫って妻の小言や批判を、侮辱と受け取りやすいんだよね。すると、男は黙ってしまう。男が黙るのは、怒っている表現だから。でも妻は夫が黙ってしまうのは、愛のないしるしと受け取るみたいなんだよね。その夫のダンマリに対して、さらに小言がでる。さらにだまる。その悪循環のさきには、とうとう手が出てしまう夫もいるかもしれない。
反対に「すごいね」って、夫は妻から尊敬されたら、妻を愛するエネルギーが出るし、妻は夫から愛されていると実感できたら、そんな夫を尊敬できる。そうやって良い循環にはまっていけたらすばらしい。
でもそんなに簡単にはいかない。夫は「妻が尊敬してくれたら、愛する」し、妻は「夫が愛してくれたら尊敬する」と、尊敬や愛に条件をつけるので、悪循環からなかなか抜け出せないんだよね。
条件をつけないで、「無条件の尊敬」(夫を尊敬できないと思っても、尊敬をあらわす。)、「無条件の愛」(妻に尊敬されなくても、妻を愛そうとする)という、この不可能に思えることに、どちらかが先に一歩踏み出さないと、いい循環はまわらないでしょう。
じゃあ、どちらから?
きっとそれは、より大人の側からなんだよね。
わたしには無理だな。
そんなできた人間じゃないから。
だから牧師なんかやっているんですよ。
神さまに救ってもらわないと、自分は変われないし、妻も家庭も不幸にする、自己中心な人間だって、自分でよくわかっているからね。
だから、この聖書の言葉は、耳が痛くても、繰り返して聞き続けないといけない言葉だって思うんですよ。そしてお祈り。
「いずれにせよ、あなたがたも、それぞれ、妻を自分のように愛しなさい。妻は夫を敬いなさい。」新約聖書エフェソ5章33節