今日は結婚記念日。
夜のお祈り会は、妻とわたしの二人だけだったので、数年前にキリスト教系のテレビの取材を受けた時のビデオをみてみた。
酒田に来て3年目くらいの時。ビデオの最後のほうで、お互いへの感謝の言葉を語っていて、少し照れくさかったが、感動した。
やっぱり言葉は大切だと思った。
ありがとう、って言われたら嬉しい。お互い元気が出る。
ことばが、人を励まし、救う。
今年で私は47才になった。父が、母とわかれた時と同じ年だ
不景気で、小さな会社の経営が行き詰まり、会社も家族もバラバラになってしまった。
あの時の父と同じ歳になって、それがどれほどきつかったか、少しだけ想像してみる。
その頃は父の気持ちにはなれなかった。母を苦しめ、家族をこわした身勝手さを責めて、許せない時期を過ごした。
その後、わたしは生きることの虚しさを抱えてしまい、その底辺においてイエス・キリストの言葉に出会い、キリストが語る神の愛の言葉に救われ、この愛を信じて洗礼(バプテスマ)をうけてクリスチャンとなった。
そして21年。神の愛に癒され、いつのまにか父をゆるし、ここ数年は、手紙のやり取りをすることができるまでになった。
でも二人の妹達は、まだ父をゆるしていない。神の愛に出会ってほしい。
今、あの時の父と同じ歳になって、父の抱えていたであろう行き詰まり感、イライラ、不安、怒り、そんなぐちゃぐちゃした感情を、ほんの少し自分自身も実感できるようになった。
そしてあらためて思う。今日、こうして、夫婦で一緒に、心を合わせて祈ることができることが、どれほど幸いなのかと。
あの時、もし父と母が一緒に心を合わせて祈ることができたなら、苦しくても一緒に乗り越えていけたかもしれない。
お互い、自分の苦しみをわかってくれない孤独や痛みを、ぶつけ合い、家族バラバラになることもなかったのかもしれない。
しかし、その家族崩壊という十字架の苦しみは、やがてキリストの愛に出会って復活する喜びへのプロセスだったのだ。
今や、わたしは確信を持って父に、母に、神の愛を語れるものとされた。
言葉は人を救う。ありがとうの一言が、愛しているの一言が。
人を通して語られる神の愛の言葉は、確実に人を救う。かならず。わたしはその救われた者の一人だから。
14回目の結婚記念日に心からの感謝。