「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたし(イエス)は既に世に勝っている」ヨハネによる福音書16章33節
苦難は勝利へのプロセス
十字架は復活へのプロセス
この世の人生は、天に向かうプロセス
なんだな。
昨日、つらいことがあったと、ある人の話を聞かせてもらったけど、信仰があっても、つらいことはつらいし、泣きたいときはあるものだよね。
でも、イエスさまを信じるということは、都合で試合を見ることが出来なかったが、試合に勝ったことを知って喜んでいるサポーターに似ているんだよね。そして、あとからワクワクしつつ試合のビデオを見ているようなもの。
ビデオを見ながら、途中信じられないアクシデントや、もう駄目なんじゃないかという危機的な状態が展開し、なんども失望感を味わいながらも、根底では安心しきってその状況を味わっているようなもの。
すでに勝ったのなら、プロセスなんてどうでもいいじゃないか、というのはつまらないでしょう。
勝つことより、そのプロセスを味わうために、この世にいきているわけだから。
プロセスが必要ないなら、初めから天国に生まれたらいいわけです。
失望という気持ちを味わうプロセスによって、「やったー信じられない!!」という神さまがくださる逆転(復活の)の喜びを、味わえるのだし。
よく、神さまがいるなら、なぜこの世に苦しみや悪があるんですか、と言われるけれど、この世は天に向かうプロセスだから、やがて天にいったら分かるんじゃないですか、としか言えないんだよね。
天にいったらすべて分かる、とはいっても、やっぱりこの世というプロセスを生きたうえでの、天の喜びなんでしょう。
日曜日の礼拝の1時間は、この世にあって、天の喜びを先取りする、天の窓を開くようなもの
「この試合負けちゃうんじゃないの」「この世界、わたしの人生、このままじゃダメになっちゃうんじゃないの」と、すぐに目の前の状況で、不安にとりつかれて身動きが出来なくなるわたしたちに、
日曜日の一時間、一緒に天の窓を開いて、「大丈夫だよ。もう勝っているよ」って、イエスさまの「勝利宣言」を聞く現場
唯一、この世界の、そしてあなたの人生の、試合結果を知っている方の言葉にね