歌舞伎と教会

 昨日新しい歌舞伎座こけら落とししたことが、ニュースになっていましたね。
そしてNHKクローズアップ現代では、歌舞伎の後継者問題や、客層の固定化、高齢化について、取り上げていました。。

一見、沢山の問題が語られていたけれども、要するに、歌舞伎を、現代の若い人たちに見ていただき、ファンになってもらうには、どうしたらいいかということなんでしょう。

そもそも、歌舞伎という名称は「傾く」(かぶく)という言葉から来ていて、本来、その時代の中で「とがっていたこと」を言っていたのだと、クローズアップ現代のゲストの方が言っていました。「かぶく」って昔、京や江戸で流行した、派手な衣装や一風変った異形を好んだり、常軌を逸脱した行動に走ることを指した言葉だったそうですね。

そしていつの時代も、「とがっている」ものを求めるのは、若者たちなのだから、実は、歌舞伎は若者文化、庶民の文化だったはず。歌舞伎が「とがっていた」時代は。もちろん、その時代には後継者問題とか、客層の固定化、高齢化の問題などないわけです。

それが長い年月のなかで、「とがったもの」から「守るべきもの」になるとき、若い世代が離れていくのはある意味当然。

「とがっていた」時には、面白かったものも、「守るべきもの」となったいま、若い人たちが「わからない」「むつかしい」と思うのは仕方がない。

「わからなくてもいい」「その場の雰囲気を味わうことが大切」とゲストの方が語っていて、それで大丈夫なのかなぁと思いましたよ。

そして、後継者として頼みの綱は、小さいころから歌舞伎の世界の中で育てられた歌舞伎役者の子どもたちと、2年に一度、少数の人を募集する、歌舞伎役者の養成所で修行する少数の若者たちなんだそうです。

なんだか、この現代の歌舞伎の状況を知れば知るほど、現代のキリスト教会の現状と、とても似ている気がしてきました。

教会も後継者問題は深刻。そして礼拝に集う人々の固定化、高齢化問題も抱えているでしょう。

牧師の後継者として頼みの綱は、やはり牧師の子どもたちだったり、数年に一度、神学校にいく若者が現れることを期待する、というような状況も歌舞伎とにている。

今の教会の礼拝に若い人が参加した時、やはり正直「わからない」「むつかしい」と思わせてしまう言葉や文化を守っていると思いますよ。そういう声を良く聞くし。

そんなとき、「最初はわからなくていいんですよ」とか「礼拝の場の雰囲気を味わうことが大切」と言っていて、いいのかなぁ。


 数百年前のヨーロッパの文化のなかにおいて、とくに宗教改革なんてものすごく「とがっていた」当時のプロテスタント教会。その当時の文化(礼拝の形式とか讃美歌とかもろもろ)が、ほとんどそのまま数百年の間温存され、この日本にまでやってきて、今やすっかり「まもるべきもの」として伝統化してしまっているんじゃないかという問いはやっぱり必要だし、そのことを認める勇気も必要なんじゃないかな。


 もちろん、そのうえで、たとえ衰退していくとしても、「わたしたちが引き継いできた教会の伝統は伝統として守ります」というあり方もあっていい。

 歌舞伎を伝統芸能として、この時代に「守っていくこと」そのこと自体は、大切なことだし、意味もある。

 ただ、教会にとって本当の意味で「まもるべきもの」とは「福音の宣言」だけなんです。そしてむしろ「福音」を表現するための教会の文化、形式、制度などは、その時代のなかで「とがって」いることで、「福音の宣言」を、より多くの民衆のものにしていこうとしたのが、プロテスタント教会だったはずだよね、ということは、やっぱり一言いっておきたいんですよ。

 今の、のぞみ教会。「とがって」いるかなぁ。