機械化とコミュニケーション

shuichifujii2013-02-20

 昨晩からまたすこし雪が積もりました。

教会の前の道路は、袋小路なので市の除雪車は入ってこないのです。

去年までは、雪が降った朝には、お隣さんとママダンプやスコップで除雪してました。

今年は、お隣さんが大きな除雪機を購入。教会の前の道もすべてやってくださいます。

とてもありがたいです。一方で「今日も降りましたねぇ」なんていって、朝からせっせと一緒に雪かきをするようなコミュニケーションが減ってしまうのは、機械化がもたらすものなんですよね。

この機械化によるコミュニケーションの変化は、農業の機械化もそうだったんじゃないかな。広い田んぼに、コンバインに乗って農作業している人がたった一人。後の人たちは、会社に勤めたり、都会に出て行ったりして、かつての農業共同体はすっかり弱体化した、というのが現代農業の光景でしょう。

機械化は、共に生きる共同体を弱めていく作用をするのだ。

ネットや携帯というバーチャルなコミュニケーションが盛んである背景にも、機械化がもたらしたコミュニケーションの空洞化への代替え的な機能を求めているのだろう。

でも、生きる喜びって、やはりリアルな現実の中で、なにかを人と分かち合ったり喜びあったりするところにある。コンサートだって、ビデオではなく同じ時間に、通信ではなく同じ空間で、バーチャルではなくリアルな出来事を共有するときの感動は、どうやったって、録音では再現できない。


そういう意味でいうなら、日曜日の礼拝は、時間を合わせて同じ空間に集い、ともに神さまへの歌を歌い、祈る体験を共有し、そこに集った人々へ、その場においてのみ語られる出来事としての、聖書の言葉、福音と出会う場。しかも、その喜びを互いに分かち合う新しい共同体が形造られていく現場なのだから、これは、間違いなく感動的なんだよなぁ、と思った今日この頃。