礼拝はいいよ

 ちょっと考えて見ればわかるけど、自分が今、生きているのは、当たり前ではなく、だれもが自分の意思を超えて生まれさせられて来たわけだし、自分で頑張って生きてきたと意地を張っても、みんな何も自分ではできない赤ちゃんだったことを忘れているし、そして最後も何もできなくなっていくわけです。

頑張っていると思っている自分なんて、ほんと、ちっぽけなものです。

 自分を存在させた目に見えない大きな存在を、一応便宜的に日本語で「神さま」と呼んでいるけれども、別に「神さま」が嫌だったら、大いなる方でも、宇宙の源でも構わない。イエス様は「天の父」と教えてくれたけれども、「父」に抵抗あるなら「天の親」でも構わない。要するに、自分は今、自分自身の意思や力を超えて、大いなる意思によって存在させられていることに気がついたらいいのです。


 つい、目の前のことで一喜一憂するとき思い起こしましょう。わたしは自分で自分を存在させたのではないことを。わたしを存在させた方がちゃんと導いて責任を取ってくださることを。

 なぜなら愛の対象として、「天の親」に今、存在させられているのだから。


うつに苦しむ人の多い時代。自分の存在の意義と愛を感じられなくさせる、この世界の嵐の中で、「天の親」の愛に気ついて、ホッとしたい。

教会の礼拝は、「あなたは神の子だ」というイエス様の福音宣言を聞く場だし、聞いて自分を取り戻したもの同士が、励まし合い元気になって、この世界で活き活きと一週間を歩み出す現場。


この素晴らしい礼拝に、どんどん集いましょう。人生の時間は限られているのだし。