水谷先生のブログから

小さな命を守る会の水谷先生のブログの記事に、考えさせられました。

以下、ブログ記事

感動はするものでなく、強制するもの〜感動がもたらすファシズム(上)
 以下のブログ記事を読み、感動について考えさせられました。

「松ちゃんの教室ブログ」より「今一度宗教者の姿勢を問う(6)」
http://yaplog.jp/shinkichi1109/archive/976

 もちろん、宗教者の応答責任についてチャレンジを受けたのですが、それとは別の面で触発されたことで記事にします。それは「感動が時に有するファシズム性」であります。30代イケメン編集長の松ちゃんは以下のように記しています。

 森村氏は、「『宮崎アニメを観ない』ことによって育つ感受性もあるに違いない」との理由で、「観れば感動してしまうのかもしれない」 と思いつつ、あえて「観ない」という選択を固持する。

 「みんなと同じアッチじゃなく、誰もが興味を示さないコッチを向く姿勢にこそ、芸術家のあるべき姿を見る思いもする」という。 果たして、氏のような生き方は、浮世離れした芸術家の単なる
ヘンクツやアマノジャクとして切り捨てられるべきものだろうか。

 私が抱いてきた違和感の一つは、ボランティア至上主義とでも言うような震災後の「空気」である。 まるで、被災地に行かない人間は「人でなし」とでも言わんばかりの、重く冷たい「空気」。

「宗教者として震災に向き合う」方法は、決して一つではないはずだし、 「みんなと同じ」でもないはずだ。


 以上が引用。感動は時に応答を画一化させます。特定のある応答以外の応答をしてはならないムードを作り上げることがあります。ここに記されているように、3.11以降は、「現地に向かいボランティア」だけが真実な応答でそれ以外は、「本気でない応答」のようなムードが日本中にあるのを私も感じています。

 かつて島田紳介プロデュースの番組の一部が、「感動の押し売り」と批判されたことがあります。確かに感動の押し売りは迷惑で不快でしょう。それでも「感動がもたらすファシズム」よりはましです。押し売りは嫌なら何とか断れますから。そう、押し売りには、断るという選択肢があるのです。

 しかし、ファシズムにおいては断るという選択肢は極めて厳しいものとなります。感動に対して特定の応答をしないと「人間でない」「冷たい」「非国民」などのレッテルを貼られかねません。感動に対して「みんなと同じ画一的な応答をするのが日本人」とばかりに、最初から外国人を排除した発想で、なおかつファシズム的な発言を時に耳にします。

 「感動は大切」、「感動をありがとう」と私も思います。そんな感動からファシズムを生み出したり、画一化によって異なる人々を除外しかねないのが、私たち罪人が形成するこの社会であります。

 最近、渋谷陽一の本を購入しました。彼は著書の中で、泉谷しげるのこんな発言を紹介しています。

 「感動はするもんじゃなくて、強制するもんだ」

 これは3.11以前に泉谷が発していた言葉です。どういう意図での発言かは不明ですが、日本社会が3.11以前からもっていたある体質を言い当てていたのかもしれません。そう、感動が強制されているのが、日本社会。感動の強制は、感動が持つ負の力を呼び起こします。

 感動は時に、人を思考停止状態に陥れます。
 そして、群衆心理状態を作り上げます。
 それは、感動に対して画一的反応をしない異質者を排除します。
 結果として、ファシズムと呼ばれるにふさわしい状態が訪れます。
 このことを熟知しており、金儲けする者もいれば、政治利用する者も。
 

 感動の強制、それへの画一的応答の要求、異質者の排除・・・・。

 キリスト者が群集のごとくが踊らされていてはならないでしょう。神と出会い神を知り、真の感動を体験しているキリスト者こそが、こうした感動の強制が持つ危険性と負の力を見抜き、日本社会にあって、賢い発信と着実な歩みをしたいと願うのです。