記念会

 先週は、妻の父の納骨と一年目の記念会のために東京に行っていました。

 納骨の日は強い雨が降っていましたが、次の日の記念会の日は晴天。

 記念会では、「涙雨じゃないの」といわれる方もいましたけれども、家族は不思議に平安なのですね。

記念会の時に、教会でお世話になった方々、親戚の方々のまえに、短く聖書のお話をさせていただきました。記念会の記念として、ここに、アップしておきます。

 娘、麻美の夫で、山形で牧師をしています、藤井です。

 昨日の朝早く、山形を発ちまして、午後から、多摩霊園にて、母と義兄と、そして、わたしたち家族とで、義父の、お骨をお墓に納めてまいりました。

 晴れていましたら、きっと多摩霊園は美しく落ち着いた雰囲気の霊園だと伺っていましたが、昨日は、だいぶ強い雨が降っていまして、霊園全体が、すこし物悲しい雰囲気に包まれている感じがいたしました。

 本当は、もっとゆったりと、お義父さんの遺骨を、お墓にお納めしたかったのですが、強い雨でしたし、骨壷のふたをするために、雨の中、石屋さんを横で待たせていたこともあって、あまり長々とはせず、短く賛美歌と祈りをして、その場を後にいたしました。

 灰色で物悲しい霊園の雰囲気もあったのでしょうが、なにかすこしさびしさを感じつつ、妻の実家に戻り、義父の遺影を眺めつつ、遺影の前に置いてあった、義父の聖書をパラパラとめくってみたのです。

 聖書には、あちらこちらに、アンダーラインが引いてありましたが、パラパラをページをめくっておりました時、義父がアンダーラインを引いた、一つの聖書の言葉が目に入り、心が慰められる思いがいたしました。

 それが、今日、一番最初に読んで頂いた聖書の言葉です。お手元のプログラムのなかにも、書かせていただきました。

 もう一度、その聖書の言葉を読ませていただきます。

「あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです。
こう言われているからです。

「人は皆、草のようで、/その華やかさはすべて、草の花のようだ。草は枯れ、/花は散る。
しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。」

これこそ、あなたがたに福音として告げ知らされた言葉なのです

 義父は、なくなる約10年前に、イエスキリストを通して、永遠なる神を信じる、クリスチャンとなりました。

 義父の納骨のあと、妻とも話したのですが、義父がクリスチャンで本当によかった。義父さんは、あのさびしいお墓ではなく、永遠の神さまと一緒にいるのだよね、と言い合ったのでした。


 人は皆、この世に生まれ、華やかな時を過ごし、時が来ればこの世を去っていきます。確かに、草は枯れ、花はしぼみます。いつまでも変わらないではいられない、むなしさが人生にはつきものです。仏教のいう諸行無常。そのさだめを、あきらめ、受け入れるという生き方ももちろんあるでしょう。

 しかし父がアンダーラインを引いた聖書の言葉は、「草は枯れ、/花は散る」で終わりません。

「しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。」と続くのです。この世界は諸行無常ではない。永遠に変わらない神がおられる。

 その永遠の神さまは、2000年前に、イエスキリストを死から復活させて、死が終わりではないことを、あきらめではなく、復活の希望があることを、示して下さいました。義父は、それを信じていきたのです。

 人生の終着駅は墓ではないという希望。義父は、あの墓の先にある神さまとともに生きる永遠の命、神の国に、この時も生きていることを、わたしたちは信じています。


 今は、わたしたちは、先行き不透明な、希望の見えない暗い時代に生きていますけれども、今日、ここにお集いになったお一人お一人の上に、義父が最後まで持ちつづけた希望。どのような状況にあっても、永遠の神は、共にいてくださる希望を胸に、神さまへの感謝をもって、この記念会のひと時を過ごしてまいりたいと願っています。