「会うために」

  わたしの長男の嗣音(しおん)は今、2年生ですが、彼の初恋は2歳の時でした。初めて好きになった女の子の名前は、チーチャン。哀れにも、恋の病にかかった嗣音君は、うなされたように、毎日、毎日こう言ったのです。
「チーチャンが、見たい」
 うーん。なるほど、愛するということは、相手を見たいと思うことなのだと、その時二歳の息子に学びました。愛とは、会いたいと願うこと、顔を見たい願うことなのです。

 さてうちのような小さな教会では、日曜日に教会に集まって、礼拝をするということは、まずもって、一人ひとりが顔と顔を合わせることを意味します。つまり、イエスさまを信じている互いの顔を見たいと集まることでもあるわけです。そのような集いの真ん中に、イエスさまはおられるからです。

「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」マタイ18:20

 究極的には、日曜日にわたしたちは、何かをするために集まるのでも、何かを得るために集まるのでもないのです。愛する人々と出会い、そして愛する神と出会う。ただそのために共に集まり礼拝をするのです。


 妻と結婚前にデートに行ったことを思い起こします。これでも、一緒に横浜にいったり、ディズニーランドに行ったりしたことがあるのです(笑い)

 もちろん、自分がそういう場所に行って遊びたいから、彼女と会ったのではないわけです。彼女に会いたいから、そういう場所に一緒に行ったわけです。目的は「会うこと」なのです。本当は、場所なんかどこでもいいし、何かをしたいわけでもない。ただ、会いたいだけ。顔さえ見ることができたら、喜びが湧き上がり、幸せになれるのです。

 礼拝のためにお互いに集まる。それは、何かをするために集まるのではないのです。ただ会いたいから。神と人とに会いたいから、集まって礼拝するのです。

 もし、神さまの恵みによって、お互いに心を開いて出会うことができるならば、わたしたちは、互いの真ん中におられる、主に出会うことができるでしょう。

 この出会いにまさる喜びはない。そう思います。

 何かをすることが目的の集まりは、いつか終わります。しかし「会う」こと「顔をあわせる」ことに、終わりはありません。

 それが毎週集まりつづけ、礼拝を捧げ続ける理由なのです。