父の日

 今日は巷では「父の日」だったのですね。昨日気が付きました。不思議だなぁと思います。


 今日の礼拝には、どなたもいらっしゃいませんでした。


でも寝る前に美香は「今日はだれも来ませんでしたが、ありがとうございました」と神さまにお祈りしてくれました。成長したね。


子どもたちの成長した姿こそ、何よりの父の日のプレゼントです。


「いつも喜んでいなさい。
絶えず祈りなさい。
どんなことにも感謝しなさい。
これこそ、キリストイエスにおいて、
神があなた方に望んでおられることです」
新約聖書




今日の礼拝メッセージ

マタイによる福音書22章23節〜

(23) その同じ日、復活はないと言っているサドカイ派の人々が、イエスに近寄って来て尋ねた。
(24) 「先生、モーセは言っています。『ある人が子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。
(25) さて、わたしたちのところに、七人の兄弟がいました。長男は妻を迎えましたが死に、跡継ぎがなかったので、その妻を弟に残しました。
(26) 次男も三男も、ついに七人とも同じようになりました。
(27) 最後にその女も死にました。
(28) すると復活の時、その女は七人のうちのだれの妻になるのでしょうか。皆その女を妻にしたのです。」
(29) イエスはお答えになった。「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている。
(30) 復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。
(31) 死者の復活については、神があなたたちに言われた言葉を読んだことがないのか。
(32) 『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。」
(33) 群衆はこれを聞いて、イエスの教えに驚いた。


●「復活はない」?


 一時期、「千の風になって」という歌がはやりました。
 これは、もともとアメリカで話題になっていたポエム。Do not stand at my grave and weep 直訳すると、「私のお墓でたたずみ泣かないで」という詩のなかにある、I am a thousand winds that blow という「私は千の風になって吹いている」という部分を、新井満という人が訳して曲をつけたものだそうです。それが、少しずつ話題になって広まりました。あの、ニューヨークの9.11の追悼式でも、父親を亡くした11歳の少女が、この詩を朗読して話題になったと言われます。


 この、「死んだら風になって吹きわたっている」という歌が、多くの人の心に受け入れられたのは、なぜでしょう?

 それは、本当に風になっていると信じているからというよりも、死んだあの人は、いつも近くにいてくれるのだ。そばにいてくれるのだという、思い、願いが、多くの人を慰めたのでしょう。


 さて、聖書が伝えている究極の希望は、死からの「復活」です。ただ、風になってただよっているのでも、魂だけが天国に行くという教えでもありません。そういう、体のない存在となってしまうのではなく、「新しいからだ」を得て、神によって復活させられる。これが、聖書の語っている、究極的な希望です。その最初の出来事として、イエス・キリストが、十字架につき、死なれ、そして、復活させられたと、聖書は伝えています。


 実は、キリストの最初の弟子たちは、一度はキリストを見捨てて逃げ去ったのです。そして、イエスさまは、十字架について殺されてしまう。普通なら、これですべて終わりです。リーダーが殺されたら、その集まりは自然消滅するものです。ところが、後になって、逃げ去っていた弟子たちは、集まってイエスは、死から復活したと人々にのべ伝え始めるのです。


一か所聖書を開きましょう。

使徒言行録4:1〜
4:1 ペトロとヨハネが民衆に話をしていると、祭司たち、神殿守衛長、サドカイ派の人々が近づいて来た。
4:2 二人が民衆に教え、イエスに起こった死者の中からの復活を宣べ伝えているので、彼らはいらだち、
4:3 二人を捕らえて翌日まで牢に入れた。既に日暮れだったからである。
4:4 しかし、二人の語った言葉を聞いて信じた人は多く、男の数が五千人ほどになった。


 弟子たちは、イエスが死から復活した、と語ったおかげで、牢に入れられてしまいます。かつてはイエスを見捨てて逃げ去った弟子たちが、今や、別人のように強くなってしまった。

 これは、単に、死んでしまったイエスさまは、「今、風のように吹きわたっている」なんて思い込んだくらいではおこらない変化です。きっと魂は天国にいったんだ、と思い込んだくらいでは、おこらない変化です。そうではなく、本当に目に見える姿で、復活したイエスさまに出会ったという以外に、この彼らの変化を説明できないと、学者も言います。

 それくらい、当時「イエスが復活した」ということは、大変なことだったのです。特に、当時の権力者たちから迫害され、投獄されることになった。先ほどの聖書の箇所に、「祭司たち、神殿守衛長、サドカイ派」とあります。これらはみんな、指導者階級の人間です。


 今日のマタイの22章にもサドカイ派という人々が出てきました。

23節「その同じ日、復活はないと言っているサドカイ派の人々が、イエスに近寄って来て尋ねた。」

 ここは、まだイエスさまが十字架につく前の出来事です。サドカイ派という人々は、イスラエルの指導者グループ、権力者たちです。彼らは神を信じてはいても、「復活」ということは信じない人々であったことがわかります。いつの時代でも権力をもつ人は、自分の立場を守るために保守的になるものです。「復活」などあっては困るのです。社会秩序が乱れることを恐れるのです。ですからイエスの「復活」をのべ伝えた弟子たちを迫害したのは、権力者たちなのです。


24節から、彼らはこういうことを言っています。

「先生、モーセは言っています。『ある人が子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。

 これは、当時のイスラエルの常識的なルールです。『申命記』25章5節に記してある、いわゆる「レビラート婚」というものです。兄が子どもがないまま死んだなら、弟が兄の妻と結婚して、跡継ぎを設けなければならないという、当時の社会秩序があった。


(25) さて、わたしたちのところに、七人の兄弟がいました。長男は妻を迎えましたが死に、跡継ぎがなかったので、その妻を弟に残しました。
(26) 次男も三男も、ついに七人とも同じようになりました。
(27) 最後にその女も死にました。
(28) すると復活の時、その女は七人のうちのだれの妻になるのでしょうか。皆その女を妻にしたのです。」


 こんな7人も結婚しては、死に分かれる、などということはない。誇張しているわけですけれども、こんなたとえをだしてきて、彼らが言いたいのは、結局「復活」ということが起こったら、今の社会のルールはどうなるのか。なんどか結婚した妻は、夫たちが復活したら、いったいだれの妻になるのか? 困ってしまうではないか、という。「復活」などしたら、今のルールが、社会秩序がめちゃめちゃになるではないか。そのように皮肉な質問をしたのです。


それに対して、イエスさまは、このように答えられました。
(29) イエスはお答えになった。「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている。
(30) 復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。


「復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。」


 めとることも嫁ぐこともない。ここから、復活の後の世界とは、今のわたしたちの社会秩序やルールとは異なる世界であることを、イエスさまは示唆しておられるわけです。

 「復活」は、「蘇生」ではないのです。今のこの世界にもう一度戻ってくることではない。同じ社会秩序の中を生きることではない。新しい秩序の中に生きることになる。

 でも、サドカイ派の人々は、自分たちの頭の中だけで考え、理解できることだけを聖書から拾って、他を捨てた。具体的にはモーセ5書というところだけを認めた人々です。そういう、自分の今の理解力だけで、聖書を切り捨てると、思い違いをしてしまう。

「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている。 」と、イエスさまに言われることになるのです。


さて、「復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。」

 とイエスさまは、言われます。これは、今の私たちの社会秩序や世界のあり方と全くちがくなってしまうということか、というとそうではないでしょう。連続性はある。それは今、自然を通して、神さまが啓示してくださっていると思います。たとえば、青虫がやがて蝶へと変化することのなかに、この真理が啓示されているように思います。

 青虫は地べたを這い、葉っぱを食べる世界に生きている。しかしやがて、空を飛び、花の蜜を吸う、全く新しい世界、新しい命に復活することになる。しかし、存在としては青虫も蝶も同じ存在である。それと同じように、わたしたちも、存在としては同一のまま、今の世界とはちがう秩序の世界に、新しい体となって復活させられる。その中間には、「さなぎ」のように、一見、死んでしまったかのような、状態もある。しかし、それは死んでいるのではなく、新しく生まれ変わるための準備。つまりわたしたちの死とは、本当の死ではなく、生の中にある一つの状態。やがてさなぎは美しい蝶という体を得て、新しい世界へと復活するのです。

 今のわたしたちの人生も、ある意味、青虫の世界であって、青虫は、青虫として、一生懸命地面を這いつくばり、葉っぱを食べて生きていく。しかし、それは青虫のまま、ただ大きくなって終わるためではない。いったんさなぎとなり、そこから見事、蝶という新しい体を得て、大空に飛び立つ復活を遂げる。その希望を目指しつつ、青虫は今、一生懸命地べたを這いまわり、葉っぱを食べるのです。

 わたしたちの人生は、長くても100年。わたしたちはこの体のまま、永遠に生きることはできません。いつまでも、青虫のままではいられない。いったんは「さなぎ」となる。それが、私たちにとって、「死」というもの。しかしそれは、滅びではなく、次のステップへの準備。死は、「千の風のように」なることではない。わたしたちの人生は、風になるのが目的ではない。蝶になるためにあるのです。立派な蝶になるために、今は、精一杯青虫として人生を生きている。そして、神さまの時が来て、青虫はさなぎになるけれども、それは終わりではなく、美しい蝶に復活するために、さなぎになる。私たちにとって、死とは、そういうもの。

パウロという伝道者は、そのことを、このように言っています。

1コリント
15:35 しかし、死者はどんなふうに復活するのか、どんな体で来るのか、と聞く者がいるかもしれません。
15:36 愚かな人だ。あなたが蒔くものは、死ななければ命を得ないではありませんか。
15:37 あなたが蒔くものは、後でできる体ではなく、麦であれ他の穀物であれ、ただの種粒です。
15:38 神は、御心のままに、それに体を与え、一つ一つの種にそれぞれ体をお与えになります。
15:39 どの肉も同じ肉だというわけではなく、人間の肉、獣の肉、鳥の肉、魚の肉と、それぞれ違います。
15:40 また、天上の体と地上の体があります。しかし、天上の体の輝きと地上の体の輝きとは異なっています。
15:41 太陽の輝き、月の輝き、星の輝きがあって、それぞれ違いますし、星と星との間の輝きにも違いがあります。
15:42 死者の復活もこれと同じです。蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、
15:43 蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです。


 イエスさまも、この復活後の姿の一部を、30節で、「復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。」という表現でいっておられるのでしょう。

 ただ、今青虫のように、地面を這いつくばい、葉っぱを食べている人生からは、蝶になって空を飛ぶ生活は想像もできないように、今、わたしたちの頭でいくら復活の後のことを考えてもわからない。

 そして、2歳の赤ちゃんに、パソコンの仕組みを説明しようがないように、今の私たちに、神さまは、復活の世界を説明しようがない。ですから、イエスさまも、「復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。」と、その程度しか言われなかったのでしょう。

 今の青虫の生活をしている私たちには、蝶の世界はわからない。私たちの頭では想像もできない。しかし、わからないからといって、それが存在しないというわけではない。聖書の語る約束であるのだから、わたしたちは、頭でわからなくても、信仰で信じて希望をもてばいいのです。

 でも、わからないといっても、一つだけ、わかっていることがあります。それは、最初のキリストの弟子たちは、確かにイエスは「復活」した、わたしたちはそれを見たのだと、言い続けたことです。迫害されても投獄されても、彼らは「イエスさまは復活した」と語ることをやめなかったことです。これは、歴史的な事実です。

 ちょっと想像してみましょうか。もし、「千の風になって」という歌を歌ってはならない。こういう教えを広めたら、牢屋に入ってもらうという状況になったら、どんなに「千の風になって」という歌がいい歌でも、あえて歌うことはしないでしょう。そこまでこだわることもない。本当に風になっていると信じているわけではないのだから、そんなことに、命をかけることはないわけです。

 しかし、最初のクリスチャンたちは、「イエスは復活した」という歌を、歌うことをやめなかったのです。つかまえられることが分かっていても、実際つかまえられても、殺されても、やめなかった。それは、本当にイエスさまが、目に見える姿で「復活」したからでなくて、何がそうさせたのでしょうか。「復活」以外に、納得できる説明があるでしょうか?

 この「キリストが復活した」という証言を信じて生きる。「復活」を信じることは、あの弱い弟子たちが強く変えられたように、わたしたちを変える力となるのです。

 「復活」を信じると言うことは、ただ、死んでからの希望のみではないのです。そうではなく、今、まさに人生に希望をもって、力強く生きていく力のみなもとなのです。青虫の人生は、青虫で終わるのではない。神によって蝶と復活させられる時が来る。この希望こそが、今の青虫としての人生に意味を見出し、力強く生きていく力となるのです。

 そして、同時に復活を信じる人生は、まさに今、神の力を体験しつつ生きていく人生でもあります。

聖書を一か所開きましょう。
使徒言行録3章〜

3:1 ペトロとヨハネが、午後三時の祈りの時に神殿に上って行った。
3:2 すると、生まれながら足の不自由な男が運ばれて来た。神殿の境内に入る人に施しを乞うため、毎日「美しい門」という神殿の門のそばに置いてもらっていたのである。
3:3 彼はペトロとヨハネが境内に入ろうとするのを見て、施しをこうた。
3:4 ペトロはヨハネと一緒に彼をじっと見て、「わたしたちを見なさい」と言った。
3:5 その男が、何かもらえると思って二人を見つめていると、
3:6 ペトロは言った。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」
3:7 そして、右手を取って彼を立ち上がらせた。すると、たちまち、その男は足やくるぶしがしっかりして、
3:8 躍り上がって立ち、歩きだした。そして、歩き回ったり躍ったりして神を賛美し、二人と一緒に境内に入って行った。



4:10 あなたがたもイスラエルの民全体も知っていただきたい。この人が良くなって、皆さんの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものです。
4:11 この方こそ、/『あなたがた家を建てる者に捨てられたが、/隅の親石となった石』/です。
4:12 ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」


足の不自由な男性が癒されたのは、「あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものです。」とあるように、イエスさまが復活なさったからこそ、そのイエスさまの名によって祈り求めるとき、神の力が、癒しがなされるのです。

 妻の父が重い病のなかにいますけれども、わたしたちは、イエスさまの名によって、神の癒しを信じて祈っているのです。これは気休めのために、いのっているのではなないのです。イエスさまの復活を信じて、イエスさまの名によって癒しを祈っているのです。

 復活のキリストは今も生きておられる、イエスキリストの名によるからこそ、神の癒しが及ぶことを信じ祈るのです。「復活」を信じる信仰を通して、今、神の力を体験する道が開かれていくのです。

さて、今日の聖書の最後の箇所で、イエスさまは、こう言われます。

(31) 死者の復活については、神があなたたちに言われた言葉を読んだことがないのか。
(32) 『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。」
(33) 群衆はこれを聞いて、イエスの教えに驚いた。


 アブラハム、イサク、ヤコブとは、神に選ばれ、神に愛され、神に導かれた、信仰の祖先の人々の名です。もう、とっくの昔に死んでいる人々です。しかし、イエスさまは、神は死んだ者の神ではなく、生きているものの神だといわれるのです。つまり、アブラハムも、イサクも、ヤコブも、生きているというのです。それは、先ほどの青虫と蝶のたとえでいうなら、復活を控えて、さなぎになっているのであり、死んでいるのではない、ということです。さなぎは、死んだように見えつつ、実は生きている。神は生きているものの神であるということは、そういうことです。

「わたしを信じるものは、死んでも生きる。生きていて、わたしをを信じるものは、死ぬことがない」と、ヨハネ福音書でイエスさまは言われましたが、それも同様です。

 さなぎになることは、死ぬことではない。さなぎは生きている。さなぎは蝶になるための準備。そういう意味で、イエスを信じるものは、死ぬことはない。ここに、死に対して、復活を信じるわたしたちの、消すことのできない希望があるのです。

さて、今、わたしたちは、どこに向かって生きているのでしょうか。

結局は、風になるための人生を生きているのですか。それとも、やがて魂だけになって、あの世という場所に、生きるために、今を生きているのですか?

それとも、イエスキリストが復活したように、今、青虫のわたしたちには想像もできないけれども、いつの日かすばらしい蝶へと、神によって復活させられる希望をもって、今の青虫としての人生を、意味あるものとして生きていかれるでしょうか。

神は、死んだ者の神ではなく、生きているものの神であります。

この、永遠の命の希望。復活の力に生かされる人生へと、今、歩み出していきましょう。