喜んだのでした

shuichifujii2010-04-25

 それにしても、桜がきれいです。神さまは花をとおして、わたしたちの目を楽しませてくださっているのですね。感謝です。


 礼拝は、「いつも喜びなさい」というメッセージ。

1テサロニケ5章16節〜
5:16 いつも喜んでいなさい。
5:17 絶えず祈りなさい。
5:18 どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。







主の祝福を受ける道は、単純に喜んで生きることです。


 いまより幸いになったなら、とか、状況が変わったら、とか、あの人この人が変わったら、喜びましょう、ではないのです。


 幸いだから、喜ぶのではなく、喜ぶなら幸いになるのです。


 今の状況がどうであれ、神さまの愛は変わらないし、主は、全てを益にしてくださるのだから、どんなにマイナスに思えることがやってきても、上を見上げて、大逆転を期待して、「喜びます」「感謝します」と言ってみましょう。感情がついていかなくても、無理矢理、笑顔を作ってみましょうよ。


 え、そんなことバカらしくてできないですか。いいじゃないですか。笑顔を作ったって、なにもおなかが減るわけじゃなし、損をするわけじゃないではないですか。でも、笑顔を見た周りの人は、あなたの笑顔によって、嬉しくなるし、少しだけ幸いになるのだから。


 喜ぶことは主の御心だと、はっきり聖書に書いてあるのだから、ある意味、馬鹿になって、「喜びましょう」「笑いましょう」。


 その状況の中で、わたしたちは、「愚痴」や「文句」や「陰口」しか選べないという、そんな不自由な存在ではないでしょう。神の愛をしっているのだから、その愛によって、本当の自由を得て、いつでも「感謝」と「笑顔」を選ぶことのできる「自由」が神さまによって与えられているのです。


 いつでも喜び、感謝できる人こそ、本当の自由人。


 「ゆるせない」と縛られているのは、奴隷人。「憎しみ」や「怒り」は、結局相手ではなく、自分を滅ぼしていきますよ。


 喜んで、笑顔でいたならば、今より絶対幸いになります。本人のみならず、あなたの笑顔を見た周りの人もまた。


 求めるなら、聖霊はその力を与えてくれます。これは聖書の約束。


とまあ、説教はこの辺まで・・・



 さて、午後は、母教会の山形教会の総会に参加して、帰り道Tさんのおうちに。


 4月から新しい職場に転勤になったTさん。忙しくて、なかなか礼拝にこられない用事が続いて、いつもの笑顔を見られないわたしたちは、とてもさびしい思いをしていたのでした。


 今日、久しぶりにお顔をみれて、なんだか、親しい家族に再会したような思いがして、本当に嬉しく思いました。


 酒田に来て、不思議な導きで出会ったTさんですが、共に神さまに愛されている、神の家族なのだなぁ、感謝だなぁと、今日もまた一つ、「喜ぶ」ことができたのでした。