「神の声を聞き分ける」

 日本人は神というと、なにか神秘的な存在をイメージします。
「何ごとのおわしますかは知らねども かたじけなさに涙こぼるる」と、西行法師が伊勢神宮を詣でたときに詠んだ句が、言い表してますように、日本人は神様を「なにかよくわからないけれども、かたじけない存在」とイメージするので、「神の声を聞く」などというと、なにかわけのわからない神秘現象のように思ってしまうようです。


 しかし、クリスチャンは、「神はわたしにこのように語られた」という言い方をします。それは、彼らが何か神秘的な体験をしたというよりも、クリスチャンにとって神さまは、とらえどころのない存在ではなく、常に言葉をもって語りかけてくださる人格的な存在であるからです。人間同士も言葉でコミュニケーションをするように、神様とわたしたちも、祈りを通してコミュニケーションをとります。聖書の御言葉を通して、神様は常に私たちに語っておられるのです。


 イエスさまはこのように言われます。

「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。」(ヨハネ10:27)


 常にわたしたちに語って下さっている神様の声、言葉を「聞き分ける心の耳」がわたしたちには必要です。なにか、神秘的な体験を求めるのではなく、日常的に語りかけておられる神様の声を、聖書と祈りを通して聞きわけつつ、確信をもって前進していきましょう。


「わたしは隠れた所で、地の闇の所で語ったことはない。」(イザヤ45:19)
「わたしのもとに近づいて、聞くがよい。わたしは初めから、ひそかに語ったことはない」(イザヤ48:16)


10月4日、週報の巻頭言から