つれづれなるままに(最近の近況や思った事)

 先週は休みをいただいて、東京の妻の実家に
妻は懐かしい友人に会うことができて、リフレッシュできた様子。
東京は暑かったので、涼しい酒田に帰ってきて感謝。酒田は涼しいです。酒田にずっといたら気がつかないかもしれませんが。


 昨日の礼拝はTRさんと。Iさんはご用事のため、礼拝をお休みになることを告げに、わざわざ教会にまできて下さる。誠実な方です。


 あらためて、この酒田で素晴らしい方々と出会わせていただいていることを思います。


 正直礼拝に出席してくださる方の人数だけみれば、さびしく感じることもあります。しかし、日曜日の朝の午前中だけが教会のすべてではありません。それ以外の、目に見えない部分において、出会い、人とのつながり、関係の広がりは、日ごとに大きくなっていることを確信しています。


 目に見えるところによらず、目に見えないところにこそ目を注ぐ事が大切です。


ローマの信徒への手紙8章24節以下
「見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。」


 わたしたちが留守の間に、近くのあるクリスチャンの方が、お米を玄関においていってくださったり、また酒田に帰ってきた日には、ほかのクリスチャンの方がいろいろと食べるものを持ってきてくださいました。


 わたしたちのことを思っていてくださる方が、この酒田に沢山与えられていることを、主に感謝しています。


 昨日の日曜日の朝、祈っていると、そのお米を、酒田で出会ったある方にお渡しする思いが与えられました。


 妻に、「このお米のことだけと・・」と切り出すと、「○○さんにさしあげるの」とすぐに返事。


「どうしてわかるの?」


「わかるわよ」と妻。主が示されたのだなと確信。早速午後にお届け。


 さて、民主党鳩山代表はよく、「絆」とか「愛のある社会を」ということを言います。


 それは正論ですが、それはもちろん「政治の力」によって、外側から強制されて「絆」をつくったり、「愛し合ったり」することではないはずです。そうではなく、一人ひとりのなかに、他者を覚えて祈る祈り、支えあう愛が生まれなければ、本質的にはなにも変わりません。


 しかし、神の愛が満ち溢れ、その愛が、人々へと流れていく「教会」には、その力があると信じるのです。


 互いの「絆」を取り戻し、互いに支えあう、「愛のある社会」へと。


 それは、「政治的力」によるのではなく、一人ひとりが神の愛に触れ、感動し、愛し合うものへと、変えられていくことによって。


 昨日の礼拝のなかで、TRさんがこのような証をしてくださいました。
 「土曜日に妻と二人で映画にいってきました。妻とこのようにゆっくりと映画をみることができるようになったことを、神さまに感謝しています」


 教会にこられるようになって、本当にTRさんは変えられてきたと思います。ますます「絆」を、「愛し合う」ことを大切なさる、素敵な方になられています。


 もちろん、互いに愛し合うことは、簡単なことではありません。日々、自分のわがまま、罪と戦うことなくして、愛し合うことはできません。


 日々、祈り、聖書の御言葉に触れ、悔い改めの心をもって、ともに礼拝を捧げる生活のなかで、その戦いに勝利して、愛に生きつづけていきたいと願うのです。