教会の聖書日課から黙想

箴言1章から

「いつまで/浅はかな者は浅はかであることに愛着をもち/不遜な者は不遜であることを好み/愚か者は知ることをいとうのか。
  立ち帰って、わたしの懲らしめを受け入れるなら/見よ、わたしの霊をあなたたちに注ぎ/わたしの言葉を示そう。」
箴言1章22節〜23節)


「愚か者はしることをいとう」という言葉が気にかかった。
29節にも「彼らは知ることをいとい、主をおそれる事を選ばず・・」とある。


他の訳では、「知識を憎むのか」となっている。

この「知識」とは、人間の体験や研究による知識のことではなく、神からの知識、知恵、啓示、つまり御言葉のことだろう。


 聖書の御言葉にもっと熱心に聞くこと。もっと熱心に学ぶ事をやめない。もう、聖書の事は良く知っている、何度も読んだと思い、御言葉を「しることをいとう」ような、愚か者になってはいけないと思う。


 「主の凝らしめを受け入れるなら」とは、他の訳では「戒めを受け入れるなら」「わたしの叱責を心に留めるなら」となっている。御言葉は、時に厳しくわたしのあり方に迫ってくるもの。その御言葉に目を背けないなら、「わたしの霊をあなたたちに注ぎ/わたしの言葉を示そう。」と、聖霊の注ぎと御言葉の示しが約束されている。


 聖霊によって御言葉を示され、今日も正しき道へと導かれていきますようにと祈りたい。