わたしたちには、なぜキリストが必要なのでしょうか?
ゴミ箱にたとえてみましょう。家にゴミ箱がなかったらどうなるでしょうか?
はじめはよくても、そのうちに、家の中はゴミでいっぱいになり、悪臭を放つようになるでしょう。
人間は生活しているだけで、どうしてもゴミをだすからです。
罪とはこのゴミのようなものです。人は生きているだけで、罪を犯すのです。
「あんなことを言わなければよかった」「こんなことをなぜしてしまったのか」そういう良心のとがめを感じたことがない人はいないでしょう。人はだんだん罪というゴミを心の中に溜め込んでいるのです。
この罪というゴミは、わすれることや、なにをしてみても、なくなるということはありません。
この罪というゴミを消すことができるのは、神様だけです。
キリストは、この罪というゴミを処分してくださるのです。そのために、罪の罰を身代わりに背負って十字架にかかってくださったのです。
クリスチャンが精神的に健康でいられるのは、自分の罪を一回一回処理できるからです。たとえ罪を犯しても、キリストの十字架を見上げて、悔い改めて罪の赦しの確証をいただくことができるからです。心に罪というゴミを溜め込まないで健康でいられるのです。
だからキリストが必要なのです。