好きにさえなったら大丈夫

 小学校の金管バンドの新年度の初顔合わせで、午後から小学校に。妻もこの小学校でパートをしているので、校長先生にもよく覚えていただいてご挨拶いただき、恐縮です。


 でも、実際は、金管バンドの皆さんと顔をあわせて練習できる時間が「あっとうてき」に少ないのです。ですから、わたしにできることは実はほとんどありません。ただ、基本的なことを教えて、後は一緒に楽器を吹くだけ。そうやって、楽器の音のイメージをつかんでいただいて、それぞれが、自分の楽器のことを、好きにさえなってくれたら大丈夫。あとは、自分から興味を持って「自主練習」してくれるでしょう。そうなるように導くのが、自分の務めなのだろうなぁ、と思います。


 さて、信仰もそうだと思うのです。教会で週にいちど、たった一時間くらい、聖書を開いてみるだけでは、「あっとうてき」に時間が少ないのです。それでも、なんとかそこでイメージをつかんで、後の6日間を歩んでいくしかない。


 あとは、それぞれに、イエスさまのことを好きになっていただいて、いや、イエスさまのほうが、先に私たちのことを、愛していてくださるのですけれども、とにかく、イエスさまのことを好きになっていただいたなら、自分から興味をもって「自主練習」をしてくれるでしょう。祈ることも、聖書や信仰書を読むことも、研修会にいったりすることも、みんな、イエスさまが好きになったら、自分からそうしたくなるものなのです。


 ですから、牧師の務めとは、ある意味、皆さんにイエスさまを好きになっていただくように、イエスさまのすばらしさを何とかして、聖書からお伝えすることなのだろうなぁと思った、今日この頃なのでした。