主に祝福されて

 うちに三人いるこどものうち、上の二人の子どもたちは、去年、バプテスマ、洗礼を受けたいと言い出して、それじゃあと、少し準備したのですが、その後一時期、「やっぱりどうしようかな」と言いだしたので、しばらく様子をみていました。けれども、今年に入って、やはりバプテスマを受けたいという気持ちが固まってきたようで、本人たちも自主的に「美香と嗣音がバプテスマを受けられますように」とお祈りするようになりました。


 自分の子どもたちですが、正直「すごいなぁ」と思います。私は26歳でバプテスマを受けました。親がクリスチャンではなかったからですが、たとえ、親がクリスチャンであったとしても、この自分が小学2年生や幼稚園で、主体的にバプテスマの決心なんてできるだろうかなぁ、と思います。


 しかも彼らは、東京にいたときは、沢山友達がいた教会や幼稚園にいっていたのというのに、突然、そこから知らない土地につれてこられて、大好きなじじやばばとも引き離されてしまう。


 そして日曜日は「教会」で礼拝といっても、そこはいつもの自分の家。しかも、最初は、日曜日になっても、パパとママしかいない。教会にだれも来ない。お友達もいない。教会学校は、いつも美香と嗣音と二人だけ。ママが毎週、二人の為に、一生懸命工夫してくれたけれども、そのうち、赤ちゃんが生まれたりして、なかなかできなくなったり・・。


 正直いって、さびしかったり、悲しかったり、そんな思いを沢山させてしまったと思います。こんな状況に置かれて、よく、ぐれないでいてくれなぁとさえ、思います。


 やっと最近、おじさんやおばさんやおねえさんが、「教会」に来てくれるようになって、パパやママと一緒になって喜んだり、でも、これない日には、パパやママと一緒になって悲しんだり、さびしがったり。


 そんなパパとママの裏も表もみんな見て、そしてこんな状況のなかで、それでも、バプテスマを受けたいと言ってくれる美香と嗣音。


 これは人間業じゃないな。神業だ。彼らは、主に選ばれ、祝福されているのだ。それ以外、説明の仕様がない。そうつくづく思います。


 4月のイースターの時期に、母教会の山形教会で、バプテスマを予定しています。

 のぞみ教会で最初のバプテスマ式です。ハレルヤ。


口語訳
「あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ。悪しき日がきたり、年が寄って、「わたしにはなんの楽しみもない」と言うようにならない前に」旧約聖書 コヘレトの言葉 12章1節)