勇希は、寝るときにおしゃぶりがないと、ぐずって寝なかったのです。
ところが先日の土曜日、そのおしゃぶりがどこかにいってしまって、夜、勇希は何時間もぐずり続けて大変でした。
「おしゃぶりがあったら、すぐ寝てくれて楽なのに」
正直、親としてはそう思います。でも、妻と話して、この際おしゃぶりなしで寝られるようにチャレンジしていくことになり、昨日は、おしゃぶりなしで、寝てくれました。
泣かれたりするよりは、おしゃぶりを与えて静かにしてほしい。
このおしゃぶりが、成長とともに、「ゲーム」になったり、「ビデオ」になったり、「お金」になったり、「仕事」になったり「親」になったり「自己実現」になったりするのでしょうか。
「それがないといやだ」と泣かれて大変でも、頼りにならないものへの「依存」から、抜け出せるようにしてあげたい。いや、自分自身、そんな頼りにならないものへの「依存」から自由になっていきたい。
「それがあっても感謝、なくても感謝」そんな自由に生きていきたいもの。しかし人間は弱いのです。なにかに依存しなければ平安でいられない。人は自立的な存在ではなく、神に造られた、神に依存していきる存在だから。
だからこそ、頼りになるイエスさまに頼り、イエス様に依存する。イエス様が最善を導いてくださるから大丈夫と信頼に生きる。おしゃぶりという偽りの神さまををすてて、本当の神を神とする。頼りにならない「人」や「物」に振り回されない。「あっても感謝、なくても感謝。主が共におられるから」
ここに本当の自由があるのですね。
「主の霊のおられるところに自由があります。」(新約聖書 2コリ3章17節)
「この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。」(新約聖書ガラテヤ5章1節)