今日の礼拝

 今日の早朝は、自治会の廃品回収で一汗流し、10時から礼拝。Oさん、Yちゃん、Iさん、そしてゲストでSさん。Tさんはお仕事でお休みでしたが、礼拝前、わたしが廃品回収をしている間に、教会に顔を出され、「今日は日曜礼拝に出ることが叶わず残念です。皆様と顔を合わせることの大切さを教わり、その事をあらためて心に感じています。」というお手紙と捧げものを妻に・・。


 Tさんのお気持ちがとっても伝わってきます。顔と顔を合わせ、神様を礼拝するひと時は、本当に喜びのときです。礼拝では、神様とわたし達、そして集う互いの間の壁が取り去られ、心開かれる「出会い」の出来事が、主によって引き起こされるからなのでしょう。


 礼拝の後、食事をご一緒して、その後、今日はOさんと3時過ぎまでゆっくりとお話。


 聖書の中に、息子を癒してほしくてイエスさまのところにやってきた父親が、イエスさまに「できれば、癒していただけますか」と聞いたところ、イエスさまに、「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」といわれてしまい、とっさに、



「その子の父親はすぐに叫んだ。「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」(マルコによる福音書 9章24節 )


と言った、この父親の言葉こそ、「信仰」の言葉だと思うんだよね、ということをOさんとお話。


「信じるものには何でもできる」といえるほどの、神への信頼がなければ、クリスチャンになれない、というのなら、だれひとりとして、クリスチャンになどなれないでしょう。それは無理な相談というもの。


 この父親は、「信じます」といいながら、そのすぐ後で「信仰のないわたしをお助けください」とイエスさまにすがる。彼の中には、神を信じきる信仰などない。ないのだけれど、そんな信仰のない自分自身を、丸ごとイエスさまのまえに差し出して、「お助けください」っていっているわけです。この「お助けください」が、実は、「信仰」なんだよね、という話。


 もう一箇所、ローマの信徒への手紙の4章5節にあるパウロの言葉


「しかし、不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます。」


 私たちはみんな多かれ少なかれ、「不信心な者」ではないでしょうか。わたしも、自分自身をよく見つめてみれば、「わたしは信仰深いなぁ」なんて、口が裂けてもいえない、不信心者です。


 しかし、そんな「不信心な者」を、「義」(神様の前に正しい者)としてくださるお方、つまりキリストに、「ごめんなさい、どうぞお助けください」っていうことだけはできる。そして、それがつまり「信仰」なんだよね、という話をOさんと延々と・・。


 でも、教会に来てくださる方がいて、こんな信仰の話ができること自体、本当にうれしいことだなぁと、つくづく感じる、今日この頃です。