心の貧しさ

 イエスさまの言葉に、「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。」(マタイ5章3節)という言葉があります。


 先週のお祈り会でOさんとYちゃんに、「心の貧しい、というのはどういうイメージですか」と伺うと、「自分中心とか心が狭い」というようなイメージということでした。


 日本語から受ける印象としては、そう読むのが普通ですね。


 でも、イエスさまのいうこの「心の貧しさ」とは、自分の無力さ。弱さ、醜さを知っている人。ゆえに、自分に頼れず、神にすがるしかないことを知っている人、ということです。


 そういう人は、「天の国」つまり神の国の祝福に預かるということです。


 それじゃあ、自分はそういう意味で「心の貧しいもの」なのかといったら、自分は、心貧しくなっていないことが多い気がします。こころのどこかで、自分を誇っていたり、本当の自分の弱さやいいかげんさ、醜さに蓋をしてしまったりする。


 ところが、対人関係のなかで、時に、その蓋がはずされるような出来事に遭遇することがあります。そして、なにもないときには、隠せていたはずの本当の自分、醜い心が、ひょいと顔をだす。


 最近も、こんな私を憐れんでください と祈るしかないことがありました。今思えば、神様によって、心の蓋がはずされて、悔い改めさせていただいたのだなと思います。心貧しくさせていただいたのだと思います。でもしばらくすると、またいつのまにか、臭い心に蓋をして、いい気になっていたりするわけですが・・・


 悔い改めることができるのは、本当に恵みなのだなと思います。悔い改めさせていただいて、関係の回復、そして平安をいただくたびに、思います。


 心貧しくならせてくださるのも神の恵みなのですね。