今日はTさんご夫妻、ユキティさん、Oさん、Yちゃん、私たち家族の5人の10人で礼拝。
Tさんのご主人は、地域の草取りを終えてから、来てくださいました。
聖書は、マルコの福音書2章1節から、イエスさまには、罪を赦す権威があるという内容。
罪は、神様との関係を壊すもの。ゆえに、「罪が赦される」ということは、「神様との関係回復」
神様が赦してくれるから、神様との関係が回復するので、罪の赦しは、神にしかできないこと。
その罪の赦しを、イエスさまが宣言なさったので、律法学者たちは、神でもないのにそんなことを言って、「神を冒涜するものだ」と怒ったわけです。
そこで、わたしたちは、以下の二つのチョイスのうち、どちらかを選ぶことになります。
ひとつは、律法学者たちと同様に、イエスキリストに向かって「神を冒涜するものだ」と怒りをぶつけること。
もうひとつは、イエスキリストが言われたとおり、イエスさまには、罪を赦す権威がある(つまり神である)ことを認めて、礼拝すること。
これ以外の立場というのは、ないんですね。なぜなら、イエスさまは、はっきりとご自分には「罪の赦し」の権威があると主張しておられるのですから。
わたしにとって、イエスさまは、「神の冒涜者」か、はたまた「神として礼拝を受けるべき方」か。いったい何者か・・・
どちらを選び、信じ、歩んでいくかは、わたしたち一人ひとりに託されている自由。自分で選ぶ自由があるからこそ、その選び取った結果も、自分がすべて引き受けるわけです。
イエスさまは、わたしにとって、罪を赦す権威あるお方。礼拝されるお方。
そう信じて、怒りではなく、平安をいただいていきたいものです。