今日は晩餐式

 今日の礼拝はユキティさんとお母さんと共に。

第一週の日曜日なので、礼拝のなかで「主の晩餐式」をしました。

エスさまの十字架による、罪の赦しと永遠の命の救いの恵みを記念して、パンと杯をいただくこの礼典は、「バプテスマ式」にならんで、教会にとって大切な儀式のひとつ。


わたしたちの教会では、バプテスマを受けられた方が、「主の晩餐式」に預かることにしています。子どもたちにも、バプテスマを受けてからいただこうね、と言っています。


ひとつのパンをちぎって、聖書から、イエス様の言葉を読みます。


「これはあなたがたのための、わたしのからだである。わたしを記念するため、このように行いなさい」
「とって食べよ、これはわたしのからだである」


そして、パンをいただきます。


次に、ぶどうの汁が入った杯を手に取り、聖書から、イエス様の言葉を読みます。

「この杯は、わたしの血による新しい契約である。飲むたびにわたしの記念として、このように行いなさい」「みな、この杯から飲め。これは、罪のゆるしを得させるようにと、多くの人のために流すわたしの契約の血である」


そして、杯をいただきます。


 本当に、こんな罪深い私のために、もったいなくもイエスさまが命を捨ててくださった恵みを、頭の中の理屈ではなく、食べる、飲むという具体的な行為によって、思い起こすのが、「主の晩餐式」



 北海道の自然の中で、悩める若者たちが立ち直っていくために、共に農業をしたり動物を飼いながらの共同生活をしている、水谷恵信先生が書かれた本のなかに、こんな一節がありました。


「皆さんが遊びにいらしたときには、山羊を一頭つぶしてごちそうしたいのです。
 私たちが肉を食べるとき、実はそれは、生きていたわけですね。名前は、花子と言うんです。私たちは、四年間育ててきました。つぶらな瞳で、鼻をクンクン言わせながらすり寄ってきます。小屋から出し、飛び跳ねる彼女を山に連れていって放牧し、夕方に連れて帰るのです。戦時中に、山羊を飼っていたお寺のご住職が、こんなことを言っていました。「山羊は可愛いですよ、もう本当に。草むしりをしていると、前足でだっこしろと言って背中に乗って来る。本当に可愛い」。やはり、動物を飼った人ですね。分かる気がします。そういうふうに、動物は、私たちの世話に対して、喜びを体いっぱいで表現し、そして、生きているんです。


 そんな花子をつぶして、みなさんに食べさせます。私たちは、もうグッと胸が詰まって食べられません。「花子よ、おまえ、こんな姿になって」。
 でも、私たちは、いつも、そのような、命のあったものをお皿に盛って食べているんです。スーパーでは肉の固まりになっていますから、命の価値が分かりません。


 イエス・キリストはまさに、そのようにして死なれたということです。あの方は生きておられたんですよ。愛してくださったんです。三十数年の人生を、本当の苦労なさって、その挙句、私たちのために命を提供なさったんです。


 私たちは、十字架というと、シンボルみたいに、胸や耳にぶら下げて。それは何かきれいごとでしょ。しかし、違うんじゃないですか。十字架というのは、もっと血なまぐさいものでしょ。イエス・キリストの犠牲というのは、山羊の花子です。私たちは、それを食べなければ生きていけない。「これはあなたがたのためのわたしの体である。あなたがたが生き延びるために、私が必要で、私は食べられたくて生まれてきたんだ。食べなさい」。



 この、水谷先生の言葉は、とても心に響きました。

 「主の晩餐式」のなかで、具体的にパンを食し、杯を飲むという行為をとおして思い起こすべきこととは、約2000年前、確かに生きておられたイエスさまが、私たちにいのちを得させてくださるために、そのいのちをつぶされた、犠牲の子羊となられた、ということなのです。


 そして、このことを信じてゆだねるとき、イエス様のいのちは、2000年の時を越えて、今、わたしたちの内に注がれるのです。これは、聖霊による働きです。


 わたしたちは、この主のいのちを頂くとき、初めて、神に作られた自分らしく、いのちを輝かせて生きていくことができます。このキリストの命こそが、わたしたちを活かす力であり、喜びの源泉。


 主の晩餐式は、この恵みを思い起こす大切な礼典なのです。