決断する祝福

shuichifujii2008-05-10

 今日は、幼稚園のお母さんの日の行事と父母会の総会。今年度父母会の会長を引き受けたので、挨拶とか報告をする。「まだ、酒田に来て1年と8ヶ月なので、幼稚園や父母会の主催の行事について、細かいことはわかりませんから、皆さんどうぞ助けてください。」と挨拶。「この会長さん、だいじょうぶかなぁ」と、すこし心配していただくくらいのほうが、積極的に手伝っていただけて、いいんだよね。


 明日は母の日。妻も「母」なので、なにかしてあげようかなぁ、と思い、午後から、大量にカレー作り。これで、今日と明日は、食事の準備から開放されるね。


 夕方、Oさんと娘さんのYちゃんが、「近くに買い物にきたから」と、ちょっとよってくださいました。お二人は、何年間か学んでいた、キリスト教系の異端と言われる、ある宗教をやめる決断をなさいました。しばらく前から、相談を受けていましたが、わたしは、いろいろお話させていただきつつも、最後はいつも「ご自分で考え、決断してくださいね」と申し上げてきました。神様が下さった、一度きりの自分の人生です。「だれかに言われたから」ではなくて、自分自身で考え、選び、決断してほしかったからです。


 良かったです。本当に、良かったです。


 まだ、事情があって、そこから完全に抜け出るにはしばらく時間がかかるようですが、自分自身のうちで「決断」することができたのですから、大丈夫です。主がささえてくださいます。祈っています。


 なんでもそうですが、すべてのことがわかってから、決断しよう、なんてことはありえません。たとえば結婚の決断も、相手のすべてはわからないけれど、いや、わからないからこそ、どこかで「えいやー」と「決断」するのです。


 10年近く前、妻と結婚する「決断」をして、本当に良かったと思います。妻も、よく、こんな男と結婚する「決断」をしてくれたと、感謝しています。


 もし、「まだ、あなたのことがよくわからないから、こわくて結婚なんてできません」と、いまだに恋人関係をやっていたとしたら、この10年の間、神様が用意してくださっていた、沢山の喜びを味わうこともできないまま、二度とない人生の大切な時を、過ごしてしまっていたかもしれないと思うと、ゾッとします。


 もちろん、良く考えること、熟考することは大切です。軽率な「決断」は無責任です。「決断」にはリスクが伴うからです。しかし、あまりにも考えてばかりで、「決断」できないことは、問題です。

 確かに、失敗したなぁという「決断」をしてしまうこともあるでしょう。でも、失敗したら、自分で責任をとって、またそこからやり直す「決断」をすればいいのです。


 一番の失敗とは、いつまでも「決断」しないまま、大切な時間を浪費してしまうことにあります。


 性能の良いデジカメがほしいと思うばかりに、「今、買ってしまったら、また、すぐにもっと性能のよいのが出るかもしれない」と、いつまでも買う決断ができない人がいました。


 そうやって、「決断」を先延ばしにしている間に、今日しか撮る事のできない、すばらしい景色や、決定的瞬間を、撮りのがしていくのです。人生もまた、そうではないですか。


 イエス様を信じて生き始めるという「決断」。この決断を先延ばしにしても、得るものはありません。イエス様のことがすべてわかったら、「決断」するのではなく、イエス様を信じる「決断」をしたら、初めて、イエス様のことがもっとわかり始めます。結婚とおんなじなのです。


「馬には乗ってみよ、人には添うてみよ」ということわざ通りです。


 イエス様を信じる。この方にゆだねてみる。


 この「決断」がもたらす祝福は、計り知れません。



「あなたたちはだから、主を畏れ、真心を込め真実をもって彼に仕え、あなたたちの先祖が川の向こう側やエジプトで仕えていた神々を除き去って、主に仕えなさい。
もし主に仕えたくないというならば、川の向こう側にいたあなたたちの先祖が仕えていた神々でも、あるいは今、あなたたちが住んでいる土地のアモリ人の神々でも、仕えたいと思うものを、今日、自分で選びなさい。ただし、わたしとわたしの家は主に仕えます。」
ヨシュア記24章14節〜15節)